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陽炎の島(15)
 誰かが私の名前を呼んでいる。聞き憶えのある声だ。思い出そうとして面倒になって止めた。劉さん。劉さん。その声は執拗に名前を呼び続ける。眠り足りないのだ。静かにしてくれ。劉さん。しっかりして。声は私を呼ぶだけでなく、ぴしゃぴしゃと頬を打った。劉さん。先生。秋日さん。とうとう重い瞼を持ち上げた。夢ではなかった。眼の前の、眩しい光の中に、見憶えのある顔があった。張秋香だ。なぜここにいるのだろう。
「先生、分かる。私が分かる」彼女は私の眼を覗き込みながら訊く。
「張さん。何してるの」私の声は自分でも驚くほど張りがなく掠れていた。
「自分の名前言ってみて。歳も」
 彼女の後ろで、小太りの中年の男が迷惑そうに様子を窺っている。アパートの管理人だ。「名前は劉秋日。歳は五十過ぎてから数えてない。大丈夫。風邪なんだ」
「分かった。手を出してみて」
 私は両手を突き出して閉じたり開いたりして見せた。秋香は携帯電話で誰かと連絡を取って、すぐ戻るからと部屋を出て行った。彼女がなぜここにいるのか訊きたかったが、追いかけようにも足に力が入らないので、また眼を閉じた。どれぐらい経ったのか、気がつくと白衣を着た年配の男が立っている。ペンライトで私の眼と口を覗き込み、聴診器を胸に当て、両手で腹を押し、血圧を計り、擦り切れた黒革の鞄から点滴を出した。秋香はそれを傍らのカーテンレールに吊り下げて、伸ばした管の先にある針を、手慣れた仕草で私の腕に入れる。血圧が高いので、しばらく安静にした方がいい、と医者は言った。
「張さん、よくここが分かったね」
 近所で買い物をして戻った彼女に、このアパートへ辿り着くまでの経緯を聞いた。『華麗俳壇』の編集の打ち合わせで連絡を取ろうとしても、携帯電話が通じないし、同人の誰も居場所を知らない。学校でも行方が分からずに心配していると言われて、何か手がかりはないかと部屋を探してみたら、アパートの賃貸契約書が出て来た。
「今日は何日かな」
 秋香の答えは、秀麗がいなくなって五日目、夜警を無断で休んで四日目を意味していた。アパートの賃貸契約書には、私と秀麗の名前が連名でしるされている。秋香に事情が分かるはずもないが、何かを察しているようで、私がここで寝込んでいた理由は尋ねなかった。点滴がなくなると、腕から針を抜いて容器に管をくるくる巻きつけ、台所から微かに湯気の立つ八寶粥を盆で運んで来た。ソファーへ起き直って匂いを嗅ぐと、口の中に唾液が湧いた。スプーンで掬って啜った途端、温かい物が食道を落ちていくのが分かった。霜を溶かすように腹の全体へ染み渡って、休眠していた臓腑に灯が点った感じだ。驚いたことに私の眼には涙が滲んだ。洟まで流れ落ちた。秋香は何も言わずにティッシュペーパーを差し出した。私も黙ってそれを受け取った。
「先生、お粥、夕御飯の分も作ったけど、温めてくれる人はいるの」
 私は首を振った。夕暮れになってやって来た秋香は、新しい下着と鳥精と『華麗俳壇』のゲラ刷りを持っていた。私に着替と食事をさせ、苦い漢方薬を服ませて、文章やレイアウトの疑問点を相談した。夜には学校へ戻るつもりでいたが、立ち上がろうとするとがくがく膝が震えて崩れる。年寄りの風邪は油断すると命取りになる、と言われて猫の世話を頼んだ。彼女は翌日も来てくれた。携帯電話を借りて旅行代理店と校長に連絡を入れた。代理店の担当者には、ガイドの代わりを探すのが大変だったと嫌味を言われたが、校長は、こちらは気にしなくてもいいから、ゆっくり静養して下さい、と言った。私は一度切れかかった日常との糸を結び直して、少しずつ手繰り寄せていった。
 軽い朝食を済ませてTVを視ていたら、流しを片づけた秋香がテーブルに俳句手帳を開いた。拙い筆跡で一つの句がしるされている。

 マンゴーの香り残して祖父の墓

「呉の追悼句。孫が書いたの」
「上のお姉ちゃんか」
「そう。このあいだ学校の授業で作ったんですって」
「筋がいいね。呉の血を引いてるだけある。歳時記に採りたいね」
 秋香は顔の前で手を振って笑った。
「御世辞は結構」
 世辞ではなかった。私が公学校へ入るまでに詠んだ夕日の句よりも、台湾の風土に根差している。
「先生」彼女は真面目な表情で言った。「あの歳時記は墓じゃありませんよ。種ですよ」
「そうだね」
 私はトイレへ立った。少し足がふらふらする。しかし独りで歩けるし、血圧もだんだん落ち着いてきている。居間へ戻ると、テーブルにアイスクリームがあった。秋香は追悼号の校閲に熱中している。ソファーへ沈んでスプーンを口に運ぶ。そのうちうとうとまどろんだ。
 どれぐらい経った頃だろうか。ドアの鍵が開いたような音で眼が醒めた。秋香がゲラ刷りから顔を上げて、そちらを見ている。肩からエルメスの旅行鞄を提げた若い娘が入って来た。髪を後ろでまとめ、ふわっとした木綿のワンピースを着て、化粧気のない顔にびっしり汗を掻いている。思わず起き直った。胸が轟く。
「このおばさん、誰なの?」彼女は鞄を下ろして不機嫌な口調で言った。「何なの、その格好」
 秀麗だ。彼女の声だ。ランニングとパンツだけの私は、慌てて立ち上がる。
「この人は僕の雑誌の同人」君がいなくなって、という言葉を呑み込む。「この部屋で待ってたら、風邪で動けなくなって、世話してくれた」
 秀麗は煩わしそうにハンカチで汗を拭った。
「じゃ、もういいんでしょ。帰って貰って。劉さんも自分の部屋で寝れば」
 花の匂いがした。あのホテルの夜と同じだ。あまりにも秀麗らしい言い方に、驚きも、憤りも失せて、可笑しさが込み上げる。笑い出しそうになるのを堪えた。秋香はゲラ刷りや辞書をバッグへ詰め込んで、そそくさと帰り支度を始めた。玄関へ見送った私に、硬い笑顔で、お大事にと言って出て行った。
「どこへ行ってたの」
 秀麗は返事をせずに、冷蔵庫からライチのジュースを出した。向かいのソファーに重そうな体を預けて、後ろへ反り気味になって飲む。
「もう帰って来ないかと思ってたんだ」
 旅行に行っていたのだ、と面倒そうに応えた。眠っていないのか眼が充血して隈ができている。木綿のワンピースは皺だらけだ。
「……これから旅行に出る時は、一言断ってくれないか。妊婦なんだ」
「シャワー浴びたいの。帰って」
 彼女はジュースの残りを飲み干しながら立ち上がり、怠そうな足取りで浴室へ行く。私はポロシャツとコットンパンツを着た。ここは秀麗の部屋なのだ。この娘が帰るところは他にない。アパートの正面玄関を出たら、日傘を差した秋香が立っていた。
「どうしたの」
「劉さんこそ、どこ行くの」と日傘で翳を作って私の腕を支える。
「自分の部屋へ帰る」
 顔にむっとした空気がまとわりついた。体を熱の皮膜が包み、胸が圧迫される。足が萎えそうになる。彼女は大通りに出たところで、私をガードレールに腰かけさせてタクシーを捕まえた。シートに体を投げ出して、冷えた空気を貪るように吸い込む。荒い息が鎮まると、さり気なく聞こえるように言った。
「あのアパート、みんなには内緒にしといて」
 秋香は黙って頷いた。
「例会のお題は、どれぐらい来てる」
「先生、句会はまだだめよ。体に堪える」
「いや、行く。風邪ぐらいで休めない」
 明後日は定例の句会があった。『華麗俳壇』を創刊して、この三十年は一度も欠席していない。続けることに意味がある――みなにそう言い続けてきたのは私だ。
 タクシーが学校の前に着いた。降りようとする秋香を、自分の足があるから大丈夫と押し止めて、短い距離に不満そうな運転手へ紙幣を渡す。
 ――この人の家へ。
 秋香は日傘を差し出した。
「日曜日に返して」
 外へ出た途端また息苦しい熱気に包まれた。地球と金星の位置が入れ替わりでもしたような暑さだった。道路には美しい陽炎が立っている。幻の中にいるようだ。タクシーを見送って日傘を開く。背筋を伸ばす。そこから随分遠く感じられる校舎の入り口までの道を、句会に集って来る同人の顔を思い描きながら歩いた。









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