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陽炎の島(14)
 恩を重んじる闘魚のお陰で赤ん坊の命は救われた。秀麗は暑熱が肌にまとわりついて胸苦しいほどの七月の午後に退院した。産院からの帰り道、久し振りに外で食事をしたいというので高島屋のレストランへ行った。シザーズサラダしか食べなかったが、賑やかなデパートを歩いて満足したようだった。その夕暮れ、アパートのソファーへ脚を伸ばして、冷えたライチのジュースを飲んでいた彼女は、因数分解でもしているような難しい顔で腹を押さえた。痛みではない。赤ん坊が動いたのだ。両手を腹の膨らみに添えて、手足を伸ばす赤ん坊を見詰めている横顔の、悪阻で窶れて頬が窪みがちだったが、どこか満たされた母親らしい表情に、私は自分が愛撫されているような気持ちになって、つい触ってみてもいいかと訊いていた。秀麗は色素の薄い鳶色の瞳を、キョロッと動かしてこちらを見た。一瞬地雷を踏んだかと思ったが、あっさり、
「いいよ」と両手を体の脇に置く。
 私は円く突き出た下腹に恐る恐る手を伸ばす。それは意外なほど硬かった。掌に伝わる反発する感じに驚いた。そしてまったく動かない。
「固まっちゃったね。嫌われたんじゃないの」
「緊張してるんだよ。僕と同じだ」私は彼女の下腹から手を外して立ち上がった。
 その日からまた秀麗と赤ん坊と私の変則的な共同生活が戻ってきた。私は仕事を終えると、手近な店で夕食を取って朗読の録音に訪れた。毎日三十度を超える気温が続いて、土地全体が発熱して吐息をついているような熱風が吹く。デパートやCD屋や洋服屋を渉猟している秀麗は、アパートにいないことがあり、私はオーブンの中のチキンのような心境で、汗を流しながら待った。そんな時は若い頃と違って体の奥深くまでが暑さに侵されて、夜になっても熱が抜け切らない。翌日は一日中ひどい怠さに苦しんだ。何度かそんなことがあって、秀麗はアパートの前で行き倒れになられても困るからと、部屋の合い鍵をくれた。私は小躍りしたい衝動を抑えて、銀色のピカピカ光り輝くものを握りしめた。
 それからは主人のいない部屋へ入る権利を大いに行使した。秀麗が帰って来るまで、ソファーに寝転んで水分を補給しながら、NHKの相撲や北京語の字幕が入った日本のバラエティー番組を愉しむのだ。その夜も何度かチャイムを押したのに返事がなかったから、鍵を開けてエアコンとTVのスイッチを入れた。昼間の疲れが残っていたのか、猛烈な眠気に襲われて転寝をした。真夜中の三時過ぎにソファーで眼が醒めた。ここで夜を明かすのは気が引けた。一度自分の部屋へ帰って、朝になるのを待って秀麗の携帯電話を鳴らしてみた。電源が入っていないのかまったく繋がらない。また外泊だ。
 夜になってアパートへ寄った。部屋には帰った様子がなく、静かな闇に迎えられた。携帯電話も繋がらない。昭儀に連絡を取ろうかと迷っていたら、メールの着信音が鳴った。秀麗だ。ほっとして開いてみると、「神樣ga迎eni來ita.色色有ri難u」。ほとんど反射的に彼女の携帯電話の短縮ボタンを押した。繋がらない。メールを送った。返事がない。念のためにクローゼットを開けてみた。中の洋服が随分少なくなっている。しかしそんなことが起きるはずはないのだ。どこにもそんな兆候はなかった。
 昭儀に電話をして、秀麗が昨夜から帰らないことを告げ、どこにいるか心当たりはないか訊いた。どうせまた友達のところだろう、と呑気なことを言うので、腹が立ってその友達の連絡先を教えるように迫った。私の様子がいつもと違ったので、何かあったのかと声の調子を変えた。メールの内容を伝えた。すると、それではもう帰って来ないだろう、と溜め息をついた。
 ――なぜ。何か心当たりがあるんですか。
 ――だって、礼を言ったんでしょ。普通じゃないわよ。人に何かして貰っても、当たり前だと思ってる子なんだから。
 ――心配じゃないんですか、娘さんがいなくなって。私は昭儀が行方を知っているのではないかと疑っていた。
 ――心配よ。こっちだってショックだわ。やっと落ち着いてくれると思ったのに。……俊傑なら何か知ってるかも知れないね。
 彼は私からの電話で、油染みたコックの制服のままアパートへ現われた。彼女が親しくしている友達の連絡先を訊いたが、分からないと応えた。
 ――あんた、シュッ、秀麗を、追い出したんじゃないのか。
 私は携帯電話のメールを見せた。彼はディスプレーを覗き込んで、
 ――カッ、カミサマって、誰、と「神樣」を癖のない日本語で読み上げた。
「知りたいのは僕の方だ。何か知ってるんだったら教えてくれ。秀麗に関係のあることは、僕にも知る権利がある」
 遣り場のない怒りが私を底意地の悪い男にして、わざと日本語で話をさせた。
「秀麗にはつきあってた男がいたのか」
 ――赤ん坊は、ア、んたの子供じゃッ、ないのか。
「僕の子供だ」
 ――シッ、秀麗が、ダレッとつきあってたか、ソッ、それは知らない。
「本当に知らないのか、言いたくないのか、どっちだ」
 俊傑は私に詰め寄られて憮然とした表情で睨み返した。
「連絡が取れるんなら伝えてくれ。帰って来るなら、今度のことは咎めない。僕はずっと待ってる。帰って来るまで、ここで待ってる」
 彼の眼に宿っていた敵意が嘲りに変わる。
「最初から無理だったんだ。歳が違い過ぎる」俊傑は滞ることのない滑らかな日本語で言い放って部屋を出て行った。
 私は仕事の予定を振り替えて心当たりに連絡を取った。スタンドの経営者は、彼女は出産のための休暇に入ってから、一度も事務所へ来ていないと言った。もしかしたらと疑っていた日本の島野は、秀麗のことを憶えておらず、その答えが作ったものではないことを感じさせる応対をした。待つしかなかった。
 夜になっていた。何か賑やかな馬鹿馬鹿しいものが欲しくてTVを点けた。夕食を食べていないことに気づいたが、ほとんど食欲がなかった。水道の水を一杯飲んでソファーへ戻った。いつの間にかうとうとして、起きたら薄明りが差していた。頭の奥が痺れて、ひどく怠かった。全身の細胞のスイッチが「切」になったようで、学校へ電話をするのも面倒だった。猛烈な眠気がやって来た。少し眠ってから連絡すればいいと思った。
 次に起きると、同じような薄明りが射していた。時計は夕暮れを示していた。体が熱っぽく、何かに上から押さえつけられているようで、立ち上がるのも辛かった。水を飲んだ。トイレへ行った。ソファーへ横になった。眼を開けたら暗くなっていた。体が人形の空洞になっていて、中へ鉛を流し込まれたようだった。仕事の段取りをしなければいけない。這って携帯電話を探した。電池切れだ。そのまま床へ寝転がった。
 ひたすら眠り続けた。朝なのか夜なのか分からなくなっていた。口の中が砂を噛んだようだった。独り暮しの年寄りが死んで何日も経ってから見つかったというニュースが思い浮かぶ。彼等はこんなふうにして果てていったのだろうか。
 死にたいとは思わなかった。ただ怠かった。眠りたかった。熱い頬にひんやりした床の感触が快かった。もう少しこうして休んでいたかった。
 私はまた眼を閉じた。









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