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陽炎の島(13)
 ライチの一番美味しい季節が来た。秀麗は腹の膨らみを薄物で隠せなくなって売り子を休業した。アパートに引き籠もって何もしないのは気が滅入ると言うから、朗読のテープを吹き込む内職を勧めた。三日に一本、一二〇分のテープを仕上げて私が買い上げ、盲人や寝た切りの日本語族のために図書館へ寄付する条件で引き受けさせた。内容は、台湾を含む近世以降の秀句に短い解説をつけた、声による小さな俳諧史だ。俳句はどこで切るかが重要だから、私が側について細かな指示を出してやってみたが、秀麗はいちいち口を出されると煩わしいと嫌がった。それで「菜の花や。月は東に、日は西に。。」「亡き母や。海見るたびに、見るたびに。。」というように、読点で一拍、句点で二拍と間を決めて読むことにした。
 この内職のお陰で、毎日秀麗の声を聴くことができるようになった。買い物を届けるだけではなく、録音の時もアパートを訪ねることが許されたのだ。テキストとテープレコーダーを置いていけば勝手にやっておくと言われるかと思ったが、さすがにそんなことはなかった。私は新鮮な果物や野菜を運ぶポーターになり、朗読のディレクターになり、彼女の気が向くと軽く一緒に飲んだ。
 秀麗の体には母になるためのしるしが現われた。腹が前へ突き出して、胸も一回り大きな紡錘形に成長し、腰から尻にかけてが広く張り、全体に円みを帯びた重い体つきになってきた。自分ではそれが気に入らないらしく、ゆったりした木綿のワンピースやTシャツとオーバーオールを着ていた。溜め息をつきながら、
「退屈」と言うのが口癖になって、時々夜遅くまで外出する。ドアの前で待っていると、何も言わずに中へ入っておもむろに朗読するので、とやかく訊かないことにした。
 ある朝、いくらチャイムを鳴らしても返事がなく、管理人に鍵を開けさせたら部屋に姿がなかった。昭儀は、友達の家へ泊まったんだろう、こんなことはしょっちゅうだ、いちいち気にしていたら長生きできない、と言った。夕暮れになってアパートを訪ねたら、秀麗が悪びれもせずに現われた。心配したことを告げると、それは劉さんの勝手でしょ、と非難する。私は彼女の退屈を紛らわせるために、また王子能が設計してくれた家の図面を使った。これは僕が暮らすための家だが、やがて君と子供の物になる、君の好きな家を作ろうと持ちかけた。彼女は関心なさそうにしていたが、そのうち家の雑誌などを買い集めて、ここにテラスを、ここは吹き抜けにして、と熱中し始めた。私は秀麗の気を引くだけではなく、彼女と赤ん坊の将来を真剣に考え始めてもいた。この歳からでも入れる生命保険に加入して、煙草と酒の量を減らし、趣味に合わない仕事も引き受けた。生活の細部に渡って倹約して、できるだけ現金を残すようにした。この島で生き抜くには、不動産よりもどこへでも持ち運べる動産の方が心強かった。
 そんなある日のことだ。名古屋から来た中堅の電気メーカーの社員を、台湾のシリコンバレーと呼ばれる工業団地へ案内した。半導体の工場を見学し終わり、喫茶室で煙草を点けて携帯電話の電源を入れたら、けたたましく着信音が鳴った。
 ――どうして秀麗をちゃんと見ててやらないのよ。
 スピーカーが壊れそうな大音量の声は李昭儀だった。もともと台湾人は声が大きいが、それは彼女の表情が眼の前に見えるような、凶々しい感じさえする怒声だ。秀麗が多量の出血をして、切迫流産の疑いで入院することになったのだ。エンジニアを台北のホテルへ送り届けて、病院へ着いた時にはすっかり夜になっていた。玄関を入ると、薄暗いロビーのソファーに坐っていた昭儀が、不機嫌な表情で立ち上がってこっちへ歩いて来た。化粧が剥げているせいで、顔色がくすんで見える彼女は、薄い唇を皮肉に歪めて嘲るように笑った。
 ――秀麗と私が似てるのは男運がないこと。詰まらない男に引っかかる。
 彼女は輸血を受けながら眠っているという。面会ができなかったから私は自分の部屋へ戻った。壁には吟行で撮った潮風に眼を細める秀麗の写真の額が懸けられて、水槽の中には闘魚がゆったりと浮かんでいる。今朝ここを出る時には、こんな風に一日が終わるなんて考えもしなかった。医者の診立ては、出血が多いから赤ん坊が死産する確率は高い、しかしはっきりとしたことはこの数日の様子を見ないと分からない、ということだった。人には、人生が一変する予感に眠りを奪われる夜がある。ソファーへ横になってみても寝つかれなかった。秀麗に赤ん坊を抱かせてやりたかった。
 私はソファーから起き上がって、口の大きな空き瓶を水槽の水で満たした。網で闘魚を掬い取って入れると、ラップで蓋をした上から輪ゴムで止める。円い眼でこっちを見つめている猫に頷き返して部屋を出た。自転車に乗ってトラックやスクーターが疎らに走っている大通りへ出て、交差点で通りかかった一台のタクシーの前へ飛び出した。悲鳴のような急ブレーキの音が響き渡り、窓からまだ若い運転手が顔を突き出して怒鳴った。
 ――この馬鹿野郎、棺桶に入りたいのか。
 ――すまないね。人の命が懸かってるんだ。龍潭へやってくれ。釣りは迷惑料に。
 自転車を傍らのガジュマルの幹に立てかけて後ろの座席へ乗り込んだ。運転手は数枚の紙幣を訝しそうに掴んで、大きくエンジンを吹かしてUターンした。
 深夜の道路を飛ばし続けたタクシーは、黒い帯のような川沿いで止まった。私は闘魚の入った瓶を脇に抱えて、懐中電灯で足下を照らしながら水際へ下りた。水の匂いがして、ひんやりした風が吹き、たぷたぷと揺れる黒い流れが間近に迫った。ラップの蓋を取って瓶を斜めに傾ける。懐中電灯の光の中で闘魚がギラッと体を光らせて暗い川面へ滑り落ち、すぐ流れに紛れて見えなくなった。赤ん坊を失って悲しむ秀麗の姿が思い浮かんで、それが娘を死産した母に重なる。あのころ私は眠る前に母の乳をまさぐって、彼女が涙と共に搾って捨てていた母乳を飲んだ。赤ん坊にこの世の空気を吸わせてやってくれ。私は懐中電灯の明かりに照らされた暗い水の流れを見詰めていた。









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