ウェブ小説 アジア

陽炎の島(11)
 三月の句会を終えて台北楼の入り口を出たら王子能が追いかけて来た。
「知り合いに小さな出版社やってる男がいて、歳時記に関心持ってるんだよ。一度会ってみない?」
「あんまり無理しないで。しばらく頑張り過ぎたから、少し休憩したいと思ってた。ちょうどいい。まあ、何とかなるでしょ」
「分かった……」王は話題を変えて、ふと思いついたような口調で、「先生、この間、中正空港へ行ったかね」と訊いた。
「……いや。どうして」
「ちょっと見かけたって人がいたからね」
 彼は通りかかった黄色いタクシーを止めて乗り込み、私の坐る場所を空けてくれたが、寄るところがあると言うと、どこか納得できない表情で帰って行った。スタンドにいるのを見られたのかも知れないと思った。
 MRTの駅へ歩きながら、句会で歳時記の出版が延期になったと告げた時のことを思い起こした。みな落胆したはずなのに、私のことを気遣って、そんな素振りを見せなかった。日本と台湾は共通する季語も多いから、台湾の俳人は日本の歳時記を使ってきたが、台湾にしかない季語、言葉としては同じでも意味の違う季語がある。明治四十三年に小林里平が出版した『臺灣歳時記』は、著者も述べているようにまだ試みの段階で、本島の風土をきちんと写し取っているとは言い難い。独自の季語を整理して、台湾の歳時記を完成させるのは、この島で俳句を詠む俳人の熱望の一つだった。
 私が編纂の作業に取り組むきっかけは父の死だった。彼は光復後に興した貿易会社を、台北へ社屋を構えるぐらいには成功させた。事業を継がせるつもりでいた長男が、病弱な上に禁じられた日本語で俳句を詠むしか能がないのを見限って、台湾大学を卒業して塵の焼却炉を製造する会社にいた次男へ社長の役割を譲り、遺言書を顧問弁護士に託した。先妻と後妻の五人の子供に、それぞれ一軒の家を建てる程度の遺産を残し、利殖に疎い長男の分は知人の株屋に運用を委ねた。お陰で私は作品を出版する費用に困らなかったし、金利の高い台湾では、今も贅沢さえしなければ生活できるだけの不労所得がある。
 これでみなが満足していればいいのに、私より十歳も若い後妻が、先妻の子供が不当に遺産を奪おうとしていると、遺言の執行を停止するように裁判所へ求めた。私は向こうの言い分を聞いて再分配しても良かったが、弟は故人の意志を尊重すると拒んだ。後妻は昼となく夜となく私のところへやって来て、弟を説得するように訴える。金のことで争うのは嫌だったから、何度か話し合いの機会を持っていると、妹が意外なことを言い出した。
 ――兄さんは後妻とぐるになってる。
 頭に十元硬貨ぐらいの禿が二つできて、胃にも同じぐらいの孔が空いた。自分の相続分を放棄して争いから手を引くつもりでいたら、後妻が一人の重役と通じて、弟の代わりに自分の子供を跡に据えようとしていることが分かった。相続の問題は、後妻の株を買い上げて経営に関われないようにし、妙な入れ知恵をした重役を追放するまでに二年近くかかった。
 この間に私は三冊目の句集を準備していた。四十歳の誕生日に最初の句集を出してから、二十代から書き溜めて来た文章を三冊の俳論集にまとめて、四十五歳で二冊目を上梓した。その翌年に小学校の教師を辞めて『華麗俳壇』を創刊した。五年ごとに句集を出すつもりで、三冊目は五十歳を目標にしていたのだが、季刊の雑誌を出すのは費用も手間もかかった。日文の出版はまず活字を特注することから始まる。印刷所には日本語のできない従業員が増えて、誤植には気がつかないし、何度も注意すると機嫌を損ねて雑な仕事をする。そうして予定がずれ込んだところへ相続騒ぎが起きて、私は弟妹の家と印刷所を行き来する毎日を送った。人との言い争いが生活になっていた。
 二つの厄介が重なったことで、日本語と微妙な関係に陥った。読者が少ないのは構わない。もともと広がりは期待していなかった。日本語に後妻をやり込める力がないのも仕方がない。問題は、誰が主人か、だった。物が言いたくて仕方のなかった若い頃には、言葉は道具だ、自分の中にある何かを押し出せればいいと割り切っていたが、どうも違うのではないか。言葉はそれ自身では不完全な存在で、遺伝子が生物を乗り物として生き続けるようなやり方で永らえている。台湾に種子を下された日本語は、私に書くことを求め、奉仕させ、道具として利用しているのではないか。私は今も日本語の被植民者ではないのか。
 脊椎の病で入院していた時、母の生家の家族のように、朝から晩まで体を酷使したり、阿片を吸って寝ているだけの生涯を送るのは嫌だと思った。煩わしくても文字を持つ生き方を選びたかった。その文字が日本語でなければならない理由は私が俳人だったからだが、当時は俳句を詠むのも面倒になって、文字を持たない母の生家の生活も良いのではないか、何もかも捨てて山奥で暮らすのも悪くないとさえ思うになっていた。
 物置きから現われた父の歳時記の草稿が重みを増してきたのはそんな時だった。七十九歳で病死した父の葬儀を終えて、遺品の整理をしていたら、古い柳ごおりから日本語で書かれた原稿用紙の束が出てきた。変色した埃だらけの紙面には、昭和十八年の日付が入っていて、季語と解説、そして例句がしるしてあった。堂々と胸を張っているような達筆の筆跡は父のものに違いなかった。この草稿を光復後の焚書のリストから外した事実は、私に父という人物の再考を迫った。
 私は机の抽き出しにしまってあった草稿を、半日かけてじっくり読み返して、改めて父の試みについて考えた。この歳時記には、台湾に固有の季語と、日本語と言葉は同じでも意味の違う季語が選ばれている。後者の季語には、例えば大蒜があって、日本人は臭いというイメージで捉えるが、台湾人は香り高いというイメージを持つ。日本語族の日本語は、内地の言葉を離れて、台湾の土着言語への過程にあるもので、翻訳しないと真の意味は掴めない。このような季語を網羅した歳時記は、日本語を豊かにすると同時に、植民者の言葉を流用して台湾に独自の言葉の世界を築く試みでもある。
 この歳時記が、国語として日本語を強制されたことへの、父らしい、体制への巧妙な弁疏を含む応答だとすれば、植民地の現実に屈したはずの人物の中に、抵抗の志が潜んでいたことになる。考え過ぎかも知れなかった。しかしそう解釈できることが私を励ました。一度私と母を捨てた父への憎みも随分和らいでいた。本当の父が他にいるのではないかという、それなりの根拠を持った疑いも消えて、ほとんど蟠りがなくなっていた。自分の父を憎み続けたい子供はいない。台湾に固有の歳時記を作るというやり方で、植民者の支配から逃れようとした父の像は、彼を時流におもねる情けない男から気骨のある人物に昇格させた。そして父の試みを引き継いで、新しい言葉の空間を作るという思いつきは、日本語に使役されているという無力感から抜け出るきっかけを与えてくれた。
 私は滞っていた三冊目の句集を出す作業に復帰して、定例の句会で歳時記を出版したいと打ち明けた。みなが賛成して協力を申し出てくれた。
「先生、やっとその気になったか」と謝坤成は言った。「これは凄いことだよ。あんたにしかできない。我々が生きてたことの記録だよ」
 父の始めた試みを私が完結させて、台湾における日本語の歴史に一つの区切りを与えようという取り組みも、もう二十年が過ぎていた。その意義は今も色褪せてはいないはずだった。私は少し疲れていた。王子能に、しばらく頑張り過ぎたから休憩したい、と言ったのはその場の思いつきではなかった。
 MRTを降りて、急な駅の階段を上がって地上へ出ると、眼の前にあるそごうの向かいのベンチに秀麗が坐っていた。約束の時間にはまだ十五分近くある。
「早かったね」
 駆け寄った私に、
「今日は暇だから」と彼女は言った。「ビデオ、録っといてくれた?」
「大丈夫。ちゃんと録れてた」
 彼女の家では受信できない衛星チャンネルで放送された、ロックバンドのコンサートの録画を頼まれていたのだ。
「今日見たいんだけど」
「分かった。あとで届けるよ」
 私達はデパートの玄関を潜って、新しいアパートへ取りつけるカーテンを選ぶために、エレベーターで家具売り場へ上がった。









このページの先頭へ
三国志に学ぶ勝利学

三国志に学ぶ勝利学

(潮出版社)

ハンスの林檎

ハンスの林檎

(潮出版社)

見果てぬ祖国

見果てぬ祖国

(潮出版社)

トキオ・ウイルス

トキオ・ウイルス

(ハルキ文庫)

東京難民殺人ネット

東京難民殺人ネット

(角川春樹事務所)