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陽炎の島(10)
 翌日になっても秀麗からの連絡はなかった。スタンドへ押しかけるのは気が引けたので、会って話をしようとメールを送った。夜になって待ち合わせた茶館へ行ったら、昨夜のことは忘れて欲しい、劉さんに迷惑はかけない、と言われた。そういうわけにはいかない。私は自分の責任の取り方を明らかにしなければならないのだ。口の重い秀麗から、まず生い立ちや日本での暮らしを聞き出して、これからのことを話し合った。
 秀麗の父親は、横浜に事務所を持つ平塚という不動産屋で、日本国内のゴルフ場の開発で事業の基礎を築いた。沖縄と台湾へリゾートホテルを建設する計画に着手して、横浜と台北を往復するうちに、酒場で働いていた李昭儀と親しくなり、西門町にスナックを持たせて台湾の宿舎にした。昭儀の連れ子の俊傑はあまり養父に懐かなかったが、秀麗が生まれると五歳下の妹をペットのように可愛がった。秀麗にとって平塚は、たまに帰って来てたっぷり小遣いを与え、遊園地やデパートへ連れて行ってくれる優しい父親だった。普段の生活では耳から憶えた北京語を使っていた彼女は、父親が来ると日本語で話すように努めて、やがて俊傑が通っていた日本人学校へ入学した。
 平塚の二度目の妻が、夫が横浜と台北で二重生活をしていることに気づいたのは、秀麗が四年生の時だった。日本の投機的な経済が破綻して、リゾートホテルの建設が中止されたこともあって、彼は台湾へ来られなくなった。秀麗は母親から手紙を書くように促されて、父親と定期的に音信を交わした。やがて平塚は娘を引き取りたいと言ってきた。先妻との間にできた二人の息子は、どちらも大学を卒業して独立していたし、後妻には子供ができなかった。淋しくなったら帰って来ればいい、と昭儀に諭されて、中学から日本で暮らすことにした。
 女子大の在学中からモデルをしていた平塚の妻は、プライドが高く、精神的に脆いところがあって、秀麗と暮らす苦痛から神経を病んだ。夫が出張すると、「臭い、臭い」と風呂場へ引っ張って行ってホースで水をかける。御飯に髪の毛が入っていたから坊主にすると鋏を振り上げる。抵抗する少女に、ここはおまえの家じゃない、台湾へ帰れ、と喚く。中学校では軽薄な少年から、「台湾バナナ」とからかわれた。その場にいたクラスの女生徒は冷ややかに笑った。
 台湾では、日本人を妻にするのは経済力がある証で、親を大切にして貰えると鼻が高い。日本人を夫に持てば経済的に安定するし、有力な国の国籍を得られると喜ばれる。日本では誰からも相手にされない男性が、台湾でちやほやされて妾を持つことは珍しくなかった。アメリカンスクールほどではないにしても、日本人学校へ通う子供は一目置かれる。
 故郷では周りから羨望されていた生まれ育ちが、日本では侮蔑の理由になるという捩れは、秀麗を深く傷つけた。よく学校を休むようになって家出を繰り返し、平塚は補導された娘を引き取りに警察へ通った。昭儀は何度か日本へ来て、父親の言うことさえ聞いていれば、不自由のない暮らしができるのだ、と娘を宥めた。辛うじて高校を卒業する頃には、平塚も、妻も、秀麗も、昭儀も、それぞれが疲れ果てて、娘が台湾へ戻りたいと言った時に、父親は悲しい眼をしただけで拒まなかった。
 台北へ帰ると、母親は日本人の新しい夫と暮らし、兄の俊傑はホテルに就職して家を出ていた。彼女はアパートを借りる費用を作るために檳榔のスタンドで働くことにした。同じ年頃のOLよりも稼げる仕事は他になかったから、俊傑が売り子を辞めさせようとしても取り合わなかった。今も平塚からは電話があるし、小遣いのつもりか郵便で現金を送って来るが、それもみな貯金していた。
 売り子をしているもう一つの理由は、スタンドにいる時が一番落ち着くからだった。硝子張りの狭い矩形の箱の中で、原色の挑発的な衣装をまとって客を待つ売り子の娘達は、美しさを競う鑑賞用の熱帯魚だったが、秀麗は安易に近づくことを許さない闘魚だった。
「私は誰にも頼りたくないの」と秀麗は言った。「子供にも頼らない」
 私は自分がどのように秀麗や赤ん坊のことを考えているのか、地雷を踏まないようにして説明しなければならなかった。
「昨夜、僕は嬉しかった。君が僕のところへ来てくれて」
 秀麗の表情が一瞬険しく尖った。私は一晩考え抜いた、彼女が受け入れやすい計画を提案した。
「いつかも言ったように、僕は一人娘を死なせてる。ちょうど君ぐらいだった。その子の子供がいたら、きっと世話すると思う。この先どれだけ時間があるのか分からないけど、赤ん坊の父親…お祖父ちゃん代わりになりたい。
 君は、赤ん坊は台湾人でも日本人でもない、君の子供だって言った。僕は感銘を受けた。そうなんだ。何人なんて、どうでもいいことだ。僕は君の考えを支持する。この島で生まれて、育って、生きてる、君自身の子供を育てる手伝いがしたい。僕は連れ合いもいない。誰に気兼ねも要らない」
「だから、私は人に頼りたくないの」
「そうじゃない。僕の方が、君と赤ん坊がどんなふうに生きてくのか、見てたい。落ち葉は地面に落ちて腐るけど、土の養分になって新しい命を芽生えさせる。それが自然のサイクル。僕も自分の年齢に相応しい役割をしたくなった」
 秀麗は退屈そうに俯いて、爪先に引っかけたハイヒールをぶらぶら弄ぶ。
「君はお母さんの家を出て、自分の部屋を借りる。場所は、僕の学校の近くがいい。そうすれば朝でも夜でも、何かあった時に、すぐ駆けつけられる」
「そんなお金ない」秀麗は顔を上げて非難するように言った。「費用は僕が出す。部屋も僕が探す」
「でも、私、劉さんと一緒には暮らせないよ」
 私は顔の前で手を振った。そんなことは分かっている。
「だから僕は今のまま。そうでないと、仕事馘になる。ただ、お母さんとお兄さんを納得させるには、そうしないといけない。一緒に暮らして、二人で出産するって言っておくのさ」
 秀麗は唇を噛んで眉根に皺を寄せ、何か深く考え込む表情になった。手応えがあった。私は畳みかけた。
「仕事は今のまま。お腹が大きくなって、働くのが大変になったら、生活費は僕が出す。頼るなんて思わなくていい。僕がそうしたいんだから。そうさせて欲しい」
「どうして」
「死んだ娘に何もしてやれなかった。君と赤ん坊を世話することで、気持ちが楽になる。これは僕のためでもあるんだ」
 彼女は天井を仰いで大きな溜め息をつくと、考えるのが面倒になってきたと呟いた。
「秀麗、年寄りの智慧を信じなさい。そういうことにしよう。お母さんは君のことが心配だから、結婚のこと、子供の将来のこと、色々言うだろう。でも、それは全部僕に任せて。悪いようにしない」
 秀麗が黙認する格好で結論は出た。翌日の午後、李昭儀に電話で内容を伝えた。結婚するかどうかは秀麗の意志に従うしかない、生活の面倒は一切見る、子供が成人するまでは長生きするつもりだと言うと、彼女は私の年齢を引き合いに出して、無分別だ、無責任だと罵ったが、娘が赤ん坊を生むと言い張っているのだから仕方がない、と自分を納得させて、早くスタンドを辞めさせて、生活の苦労だけはさせないで欲しいと言った。電話を切った後は何か大きな仕事をやり終えたような気がした。その日から私には世話をする生き物が増えた。闘魚に猫、そして秀麗と赤ん坊だった。









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