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陽炎の島(9)
 七十年を超える歳月を生きてきて分かったのは、人の生涯にいくつかの法則があることだ。中でも私を悩ませたのは、不幸が仲間を連れてやって来ることだった。不幸というのは一見別々の姿に見えても、地下茎を持つ植物のように繋がっている。その朝、張秋香から呉嘉徳の追悼号の原稿の督促があった。自分が言うのは気が引ける、と苦笑するので、お役目だから仕方がないでしょ、と電話を切ると、すぐにまた着信音が鳴った。
 ――ああ……劉さん、と聞き憶えのある北京語の男の声が響いた。出版社の編集者だ。
 近くのスターバックスで打ち明けられたのは、資金を拠出してくれる企業が倒産した、パトロンが見つかるまで歳時記の出版を延期する、という話だった。抗議をするには相手の事情が分かり過ぎていた。売れる見込みのない日本語の歳時記を、歴史の記録としての価値を認めて、出版を決断してくれただけでも感謝しなければならない。
 執筆から五年後に戒厳令が解除されて日文の出版が認められ、曽の紹介で別の出版社に草稿を送ったことがある。しばらくして出版を引き受けるという返事があり、書店に並ぶ日まで決まっていたのに、不意に動きが止まった。担当重役が急死して方針が変わったというのだ。曽は資金を援助しようと申し出てくれたが、自費出版ではないやり方で刊行したかった。
 台湾中の出版社へ原稿を持ち込んで、ようやく試みの意義を認めてくれる相手と出会った。専門書を扱う小さな出版社だ。翌々年になってある日本人の篤志家がパトロンになった。私と同じ世代のコンテナー会社の会長で、台北へ来た時に編集者も同席してホテルで会った。かつて台中の、日本の石油会社に勤めていたこの人物は、台湾での文化事業に意欲を持っていた。
「日本領の時代の、良い歴史を残したいんです。ぜひお仕事を完成して下さい」
 私と彼の思惑は微妙にずれていた。だが有り難く好意を受けることにしたのだ。
 担当重役の急死、パトロンの倒産と、逃れようのない事情で二度も同じ出来事が繰り返される因縁めいたなりゆきに、体の深いところで重く澱む物が生まれた。編集者の話を聞きながら、豊かな群青の水を湛えた海が思い浮かんだ。その風景に秀麗の姿が重なって、恋しさに胸が焦がれた。会いたい。声が聴きたい。禍福はあざなえる縄の如しという。その時の私には秀麗の存在こそが福だった。近くの銀行で貯えを下ろしてスタンドへ向かった。
「何」
 秀麗はカウンターの上へ置いた銀行の封筒を忌まわしそうに見た。
「百五十万元。この間言ってたお金」
 入り口で立ったまま応える私に、彼女は眼に見えないほど細い針で、どこかを突かれたような表情になった。
「腎臓もあげる。歳だから随分くたびれてるけど、それでも良かったら」
 思い切って言ってしまうと、もう言葉の持ち合わせがないことに気づいた。外へ出て、とにかくスタンドから遠ざかるために歩いた。秀麗は追いかけて来ない。そのままタクシーを拾って、糸の切れた操り人形のように座席へ腰を下ろす。自分のしたことが信じられなかった。だがこれ以外に遣り様がなかったという気もした。
 翌日から私は、手帳の予定表に書き込まれた通り、鰻の蒲焼きの製造マニュアルを大陸の言葉に翻訳し、沖縄の老人会を台北の名所へ連れて行った。それまでの生活から、歳時記に手を入れる、秀麗のスタンドを訪ねる、という二つの項目だけが空欄になった。ビデオを一時停止にしたまま他の用事をしているような日が続いた。
 旧正月を間近に控えたひどく冷え込む夜、いつものように校内の巡回に出た。生徒のいない教室は、闇の中へ昼間の子供の声を吸い取って沈黙している。懐中電灯の黄色い光に照らし出される、白墨の粉でぼんやりと白い黒板や、乱雑に荷物が押し込まれたロッカーには、幼い生活の痕跡があった。この静けさの中で一服点けるのが密かな愉しみだった。寒さのせいか左膝が痛んだ。机に腰を下ろそうとしたら携帯電話が鳴った。
 ディスプレーを見て胸が轟いた。秀麗の名前が輝いている。
 ――今、学校の門のところに来てるの。ちょっと話がしたいんだけど。仕事だったらいいよ。私は突然の訪問と、どこか怒っているような口調に戸惑いながら、
 ――分かった、と応えた。今、門を開ける。
 教室を出て正門の方へ向かうと、街灯の明かりの輪の中に三人の人物が立っている。一人は、痩せて、小柄な、淋しい面立ちの中年の女で、金色の縁取りがある黒いニットの上着に、脚にぴったりした黒く細いスパッツを穿いていた。もう一人はやはり小柄な、水色のトレーナーとジーンズの若者で、猿のような印象があった。二人に挟まれた秀麗は、貞腐れた表情で母親と兄だと紹介した。
 ――一度お会いしたいと思ってました。私は戸惑いを隠して北京語で言った。
 ――お宅が劉さん? 女は怒りと驚きの混じり合った複雑な響きの声を出して、秀麗を振り向く。
 ――ナッ、中で。軽い吃音の気がある言い方で若者が言った。 私は先に立って部屋の方へ歩いて行った。ドアを開けたら猫が椅子の上で頭を上げ、知らない人物が入って来るのに驚いて床へ飛び降り、激しく身を逆毛立てた。窓を開けてやったら音も立てずに夜の中へ消えた。
 ――坐って下さい。狭いところですが。
 二人は両脇から不機嫌な秀麗を押さえ込むようにソファーへ腰を下ろした。母親の昭儀は踵の細い金色のサンダルをつっかけた脚を組み、無遠慮に部屋を眺め回して、
 ――この娘、妊娠してるんですよ、と言った。
 思わず眼の前に坐っている秀麗を見詰めた。彼女は俯いたまま唇を噛み締めた。私の視線は自然と下にさがって、静かに起伏している腹の辺りで止まる。そんなことは考えもしなかった。私は里へ下りて来た狐のような心境になった。どこかに何かとんでもない罠が潜んでいはしないか。秀麗が上眼使いにこっちを見て、「すぐ帰るから」と呟いた。その瞬間兄の俊傑が眼を釣り上げて歯を食いしばり、憎しみに顔を変形させた、歌麿の役者絵のような表情で妹を睨みつけた。
 ――ジッ…自分の国の‥言葉で喋れ。若者は顔を真っ赤にして、もどかしそうに北京語で言う。コ、コ、コッ…この爺‥さんも、日本人か? オマッ、おまえ‥が、カッ、庇ってる…
 ――劉さんは日本人じゃない。それに私は誰も庇ってない。何回言えば分かるの。赤ん坊は、日本人でも、台湾人でもない。私の子供。私が一人で育てるって言ってるんだから、いいじゃないの。
 私はようやく彼等がどのようなやりとりの果てにここへやって来たのか分かった。秀麗の青黒くなっている右の眼尻から、その細部までが想像できた。勝ち気な彼女のことだ。そう簡単に言うがままにはならないだろう。
 ――話がおかしいじゃないの。昭儀が非難がましい口調で言った。おまえは劉って人が父親だって言ったんだよ。この人がそうなんじゃないの。
 ――お母さんとお兄さんのことは彼女から聞いてます。私はようやくこの間食事に誘われた理由が腑に落ちたものの、態度を決め兼ねながら、他の誰でもない私の名前を出した彼女を救ってやりたい気持ちから言った。
 ――さあ、もういいでしょ。秀麗が立ち上がった。お母さん、気が済んだでしょ、大事なあの人じゃないことが分かって。隣にいた俊傑が彼女の腕を、小柄な体格に不釣合いな、握力の強そうな大きな手で掴んで、力尽くで坐らせる。
 ――……お宅、いくつ? 昭儀が訊いた。
 七十四歳だ、と私は応えた。彼女は明らかに私を蔑んだような表情で、赤ん坊が成人したら九十四、と首を振る。
 ――彼女が妊娠してるのは、今聞いたばかりです。二人で話をさせてくれませんか。
 ――この娘はまだ子供ですよ。一人前なのは体だけ。話なら親の私が聞きます。どうなんですか、この娘はお宅が父親だって言ってますけど、憶えがあるんですか?
 ――…お茶でも淹れましょう。
 私は喉元にナイフを突きつけるような俊傑の眼差しを避けたいのと、考える時間が欲しいのとで席を立った。手すら握ったことがないのだ。しかしそう応えれば、秀麗とは会えなくなるだろう。コーヒーを淹れながら、この部屋に猫と闘魚と私だけの風景と、そこへ秀麗と赤ん坊が加わっている風景を想像してみる。一方は、これまでと同じ今となっては気楽な生活。もう一方は、いつか諦めていたものに囲まれた煩わしさを伴った生活。もっと若ければ慎重に将来の見通しを考えただろう。だがもう先は知れている。秀麗の体のことを考えると、赤ん坊は生まれて来ないかも知れない。私は自分に向けられた質問が、限られた時間の中で、秀麗とどのような関係を結びたいのかであることを理解した。人の生涯は選択の連続だが、その余地がない場合もある。私には秀麗のいない生活の味気なさが耐えられなかった。
 テーブルに不揃いなコーヒーカップを置く。ソファーに坐って手を腹の上で組むと、軽く咳払いをした。
 ――彼女の言う通りです。赤ん坊の父親は私です。ただ、赤ん坊をどうするかは彼女の体のこともあるから相談させて下さい。二人で話をさせて貰えませんか。
 俊傑は言葉を噛み殺したように沈黙して、また顔を赤く充血させた。
 ――この娘の体がどうかしたの? 昭儀が訝しそうに訊く。
 ――いや、腎臓が悪いわけだから、出産に耐えられるどうか。
 昭儀は何か苦い物でも口の中へ突っ込まれたような顔をした。
 ――この娘はね、そんなこと言って人の気を引くの。腎臓なんて悪いもんですか。
 幼い子供が気に入らない時にするようなやり方で、秀麗は顔を背ける。
 ――何を言ったか知らないけど、この娘はおたくが思ってるような娘じゃありませんよ。昭儀は薄い唇を皮肉に歪めて笑った。今までどれだけ手を焼かせたか……。おたく、それでもいいんですか。自分が父親だって言うんなら、ちゃんと責任は取って貰いますよ。
 それは以前にも同じようなことがあったのではないかと疑わせる言い方だった。しかし秀麗が私のところへ来たという事実が、彼女を疎ましく思うよりも哀れむ気持ちにさせた。  
 ――二人で話をさせてくれませんか。逃げ隠れはしません。彼女と話し合って、お母さんが納得のいく結論を出します。
 俊傑がジーンズの後ろのポケットから何かを出した。小さな果物ナイフだ。
 ――だめ、俊傑。
 彼は母親が慌ててナイフを取り上げようとするのを振り払って立ち上がり、刃を上に向けて私の心臓の辺りに狙いを定めた。眼を光らせて、厚い唇を少し開き気味にし、変に引き攣った表情になった。私は自分が落ち着いているのを感じていた。この部屋で起きている出来事の映像を、どこか離れた場所にいてモニターで視ているようだった。俊傑は、自分の腕を突き出して、トレーナーの袖を捲り上げ、押しつけた刃先をゆっくり引いた。血が膨らんで、一筋流れる。
 ――イッ、好い加減‥な、コッ、コッ、ことは、ユッ、許さない。
 母親の昭儀は息子の姿を気味悪そうに見ていた。秀麗の眼差しには悲しみが窺える。
 ――分かりました。あなたの気持ちはよく分かりました。
 俊傑は、込み上げた激情を傍らのロッカーへ向けて、ナイキのスニーカーで力任せに蹴り飛ばし、金属の扉を大きく窪ませて部屋から出て行った。息子の姿を見送った昭儀は大きな溜め息をついて、上眼遣いに私を睨みつける。
 ――この娘は簡単に言うけど、女手一つで子供育てるって並大抵じゃないの。結局、親兄弟の世話になるの。あの子は、昔から秀麗を可愛がってたから、怒るのも当たり前ですよ。普段は大人しい、優しい子なんです。あなたも知ってるでしょ、××ホテル。あそこのコックなんです。……劉さん、本当におたくを信じていいんですね。念を押されて、私は頷いた。
 昭儀は携帯電話の番号のメモを置いて帰って行った。私は秀麗のサンダルのリボンをじっと見つめた。二人だけになると、まともに眼を合わせられなかった。その体がいつにも増して生々しいのだ。言葉がうまく出て来ない。さっきまでの出来事の余韻が沈黙の隙間を埋めている。外で猫の鳴き声が聞こえた。窓を開けてやると、ふわっと窓枠に飛び上がり、秀麗を見て怯んだ様子もなく部屋へ入って来た。
「おいで」彼女が手を伸ばすと、尻尾を立てて顔を見上げる。私は猫を抱き上げようとして、自分の手が震えていることに気づいた。ひどく喉が渇いていた。
「コーヒーを」と言ってから妊婦にカフェインは良くないことを思い出した。「飲み物買って来る。オレンジジュース? それともお茶?」
 秀麗は思いついたようにバッグからこの間私が持って行った封筒を取り出した。
「手術に必要なんでしょ」
「だから、あれは嘘」
「君に必要じゃなくても、君の大切な人が必要なんでしょ」
「そんなのいない」
 私は彼女の顔へ、微風に吹かれたような、小さな戸惑いが現われたのを見逃さなかった。部屋を出て暗い廊下を歩きながら、この夜の騒動の、もう一人の主人公のことを想像した。彼は自分から遠く離れたところで起きている出来事を全然知らずに、清潔なシーツに包まれて眠っているのかも知れない。嫉妬が湧いて、同時に強く昂ぶった。若い女の裸体が閃いて消える。外の自販機で缶ジュースを買って部屋に戻ったら、秀麗の姿はどこにもなかった。彼女が坐っていたソファーの上には、猫が円くうずくまっている。どうやらこれが今夜の句点のようだ。









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