ウェブ小説 アジア

陽炎の島(8)
 呉嘉徳が死んだ。看護婦が朝の検温の時、寝たままなので不審に思って呼びかけると、すでに息がなかった。張秋香から連絡を貰って、鄭と曽に電話をしたら、どちらも、「良い死に方だな」と感じ入っていた。弔問に行く用意をしながら、謝坤成のことを思い出した。謝は明け方近く用便に赴いて、脳溢血を起こしてコンクリートの土間に頭を打ちつけ、意識が戻らないまま三日後に死亡した。私はいつか友人の死に方を比較しながら、自分の臨終を思い描いていた。
 呉は体が一回り小さくなって、大きな荷物を下ろしてほっとしたような、すっきりした表情で眠っていた。私は自然に、「御苦労様でした」と頭を下げた。隣で疲れた様子の張秋香が微笑む。
「奥さん、休まないとだめよ。先生の分まで長生きしてくれないと、事務局閉じないといけない」
「大丈夫」と彼女は言った。「私は劉さんより長生きします」
『華麗俳壇』の創刊に関わったのは、私を含めて七人だったから、呉の死で残ったのは五人になった。こうして日本語族の環は少しずつ小さくなっていく。去年の謝坤成の弔いの儀式には私と呉もいた。唱歌の『ふるさと』で遺体を送り出して、遺族と一緒に白く脆い骨を拾った。儀式が終わると創刊からの同人は六人になっていて、斎場へ着くまでみな無言だった。
「謝がね、死んでから、声を出したって言うんだ」
 曽が打ち明け話をするように言い出した。看護婦と身内が清拭をしていたら、遺体の口から、〃ああ‥〃と低い声が洩れたというのだ。謝の妻は空耳かと思ったが、その場にいた者は誰もが聞いていて、生き返ったのかと色めき立った。ところが看護婦が、奥さんが胸を押さえた時に、肺に残っていた空気が押し出されて声帯を震わせたのだ、と教えた。稀にあることらしかった。
「そりゃ溜め息だよ」鄭が曽のグラスに紹興酒を注いだ。「最後の溜め息だ」
「鞴の原理だな」烏龍茶を飲みながら王が言った。「生まれた時体に入ったこの世の風が抜けたんだ」
「死んでから二時間耳が聴こえるらしいから、試したんじゃないか」呉は弱々しく微笑みながら言った。「誰が本当に哀しんでるか」
 あのとき彼には、次は自分だという自覚があったのだろうか。呉だけではなく、みなどこかを患っていた。鄭は血圧を下げる薬を服んでいたし、曽は糖尿で眼の手術をし、王は肝臓を傷めて酒を止められている。私は軽い痛風のために雨が降ると節々が疼く。左の膝は正確な降雨計だ。
「椅子取りゲームだよ」と私は言った。「みんなで歩調を合わせて歩いてる。音楽が鳴り止んだら近くの椅子に坐る。坐れた者は生き残る。椅子はだんだん減ってく」
「我々そんな生存競争してないよ」鄭が笑った。
「自分との競争でしょ。生きる気持ち失ったら早いんだ」
「みんなで一つの椅子に坐ればいい」と呉が言った。
 曽は顔を顰めて手を振る。
「俺の椅子はあんたに譲る。もう飽きるほど生きたよ。老いを嫌うのは、若者の傲り。病いを嫌うのは、健者の傲り。死を嫌うのは、生者の傲り。旨い酒飲んで、旨い物食って、後は没関係だ」
 没関係――気にするな、関係ないさ――私達台湾人はそう言い合いながら生きて来た。確かに「飽きるほど」さまざまな出来事があったのだった。
 光復後のある日、父は庭に大きな穴を掘って、日本語の本を全部持って来いと言った。自分も書斎から運んで来た本や掛け軸や短冊を投げ込み、天麩羅油を振りかけた上に、燐寸を擦って落とした。ぱっと全体に火が点いて、穴からは黒い煙が立ち昇る。灰になって舞い上がる書物の中には、母の読んでくれた絵本もあった。
 それからの父は、若いころ日本語に向けた情熱を北京語に注いで、一年もすると読み書きに不自由しなくなった。新しい政府は、日本が残していった財務の記録や土地の登記簿や、台湾という船を動かすための膨大な量の仕様書を翻訳する必要があり、父はその作業に携わって大金を掴んだ。日本語のできる者は多くても、同時に北京語を使える者が少なかったから、率の良い仕事だったようで、中には家を建てた者がいた。父は翻訳の稼ぎを資金に貿易会社を興して、主にバナナと豚を戦後の食料難に喘いでいる日本へ輸出した。家の和室を壊して大陸風の土間や板の間を造り、大陸からやって来た役人や商売人と蟋蟀を戦わせる遊びを始めた。
 学制の改革で中学が高校になって、私は青野秋夫から劉秋日に戻った。放課後の教室では、本島人の教師が大陸の教師から北京語を学んだ。私達の授業は日本語と客家語を交えて行なわれたが、北京語が話される場面での私は唖だった。だんだん学校が嫌になってきて、父から独立したい気持ちも手伝って働くことにした。言葉が不自由なので、志濃先生から習ったオルガンを活かして、台北の小学校の音楽教師になった。内地人が引き揚げて、教師が不足していたために、高校を卒業していなくても、副校長の前で童謡を弾いただけで採用された。学校の近くに下宿してしばらくしたら、一人の白人が訪ねて来た。教会でオルガンの弾き手を探している、引き受けてくれれば英語を教えると言われて、日曜には教会へ通うことになった。軍隊から神学校へ入った白人の牧師は、英語とコーヒーとジャズを教えてくれた。
 翌年の二月の末、長官公署の路上で許可を受けずに煙草を売っていた婦人が、大陸の役人に銃で殴られた。周りにいた本島人が加勢したら中の一人が撃ち殺され、大陸から移住して来た外省人への反発が噴き出て、台北中に広がる暴動が起きた。私には関係のないことだと思っていたが、数日後の夜になって同僚が下宿へ駆け込んで来て、上司が扇動の疑いで逮捕されたことを告げた。次の日の朝、学校には銃を持った兵士の姿があった。放課後になって、学校へ忘れ物を取りに戻って校門を出ると、数人の兵士が私を囲んで、北京語で話しかけてきた。早口でよく聞き取れない。首を振った。ドンと胸を突いて、無遠慮に上着のポケットへ手を突っ込んで来る。反射的に振り払うと、斜向かいに立っていた兵士が銃の台尻を持ち上げた。
 眼の前が真っ赤になった。何が起きたのか分からないまま、いつの間にか地面に坐り込んで両手で顔を覆っていた。指の隙間から生温かいぬるぬるした血が溢れ出す。頭の上から言葉が降って来るが、耳に入らない。そのうち兵士が引き上げて恐怖が去ると、激しい痛みに襲われた。血塗れになって自転車で近くの病院へ駆け込んだ。そこの外科医は未熟で、潰れた骨をうまく繋ぎ合わせることができず、私の鼻は少しいびつなまま固定された。 蒋介石の政府は公然と略奪を行なった。広い土地をその値段の一万分の一の、たった一枚の紙幣で買い取り、大きな屋敷へ押し入って、連絡所にするからと年寄りや赤ん坊まで追い立てる。兵士は路上で行き合った市民に銃口を向けて現金を出せと脅し、拒むと犬や猫でも撃つように射殺した。知識人狩りが吹き荒れ、真夜中に警察へ連行されて消息が知れなくなった者や、強盗を装って暗殺された者がいた。台湾人は昨日まで罵っていた日本人を、蒋介石に比べればまだ法治の精神があった、と褒めるようになった。私は首から下を地面へ埋められて、口に食物を詰め込まれている鵞鳥の気分だった。訳の分からない何かが次々に押し込まれるので、どのような形でもいいから、溜まっている物を外へ吐き出したかった。
 欝屈した思いが病を呼び込んだのか、年の暮れに台大医院へ入院した。母の胸を冒したのと同じ災いが脊椎に入り込んだのだ。父に扶養される身の上になった私は、身動きのできない体を持てあまして、病室の窓から見える空に死んだ母を思い浮かべた。この世へ生まれ出た時さかさまになった砂時計の砂は容赦なく流れ落ちていく。私は自分をこんな場所へ追い込んだ何かに抗って、また俳句を作り始めた。数坪の庭を宇宙と見做した正岡子規のように、身の回りの小さな世界を言葉で確かな物に築き上げようとした。日本語なら翔んでいることを意識しないで翔ぶことができる。
 よく来てくれる見舞い客に、台北で小学校の教師をしている謝坤成がいた。数少ない中学の台湾人の先輩で、文学の新しい消息に通じているから話が合った。入院して半年が過ぎた頃、繰り返し見る夢を打ち明けた。私は零戦を操縦して、太い石柱が林立する、暗い広大な洞窟の中を、たった独り飛んでいる。周りには何もない。遥か彼方までただ石柱が並んでいる。私の乗っている戦闘機は、そのあいだを縫って、ひたすら飛び続ける。なぜ飛んでいるのか、どこへ行き着くのか、分からない。それだけの夢なのに、眼醒めてからも心許ない気分が残る。私は人に飢えていた。私の俳句も誰かに読まれることを求めていた。だがそれは台湾の出版界では望めない。
 ――また唖になったみたいだよ。
 謝はページを繰っていた何年も前の『改造』を閉じて差し出した。
 ――こういうの作らないか、日本語の雑誌。君の俳句をそこに発表するんだ。
 ――面白そうだけど、金がない。それに僕の俳句だけじゃ……
 ――書くのは君だけじゃない。僕も書く。他の者にも呼びかける。それに金はなくても、暇はあるでしょ。ガリ版刷りでやればいい。道具は学校に揃ってる。
 俄憶えの北京語ではなく、子供の頃から身についた言葉で表現したいという欲求が高まっていた。すぐに学生や社会人など七、八人の若者が集まった。私は雑誌作りに関わるすべてをこなし、謝が職場でこっそり謄写版刷りにして、見栄えの良いように製本する。俳句、和歌、詩、小説、随筆、批評――日本語の文章なら何でも掲載した。日本人に戻りたいわけではない。雑誌が属しているのは、日本でも、台湾でも、大陸でも、どこでもない、私達自身だ。
 政治的な主題を扱うのは避けた。日本領の時代には、多くの台湾の知識人がマルクス主義を信奉して、光復後もその流れが残り、先鋭的な人々は密かな読書会で繋がっていた。ロシアのナロードニキに倣って農村や工場へ入っていく活動家もいる。私も共産思想には心を惹かれたし、志に殉じて国民党に逮捕された闘士には畏敬の念を持った。時代の流れに抵抗しているという点では、私達も同じ立場だ。少しは非合法の活動している快さもある。しかしどうせ捕われるのなら、パンのための闘争よりも文学のための方がいい。最初の雑誌を発行した四年間は、病臥していた時期と重なっている。雑誌がなければ、私はあの季節を生き抜けなかっただろう。
 脊椎の病から恢復して、職場へ戻ってしばらくすると雑誌は終わった。寄稿した人々との交流は句会として残り、『華麗俳壇』の創刊へ収斂していった。私達が日本語で雑誌を作ったように、光復後に学んだ北京語で表現しようとする試みもあって、更紙に謄写版刷りの、中国文の小冊子が出た。やがて日本領の時代から活躍していた作家が、本格的な文芸誌を創刊した。台湾の文学は、言葉は中国文に限られていて、日本語の表現はないものとされた。
 一九八七年の夏に戒厳令が解除されてからは、「日文」が話題に上るようになったものの、日本領の時代の作家をどう評価するかに関心が集まって、現に産み出されつつある日本語の文学は顧みられなかった。『台北歌壇』を主宰して短歌を作り続けて来た呉建堂が、『台湾万葉集』で日本の文壇から顕彰されたのは例外だった。ある日本人は私達を隠れキリシタンのようだと言った。だが私は日本語を信仰していたわけではない。自由に使える言葉が北京語であれば、あるいは英語であれば、もっと幅広い読者へ訴えかけることができたはずだった。
 ただ、日本語への愛憎とは別に、それぞれの雑誌の同人には大きな恩恵を受けた。台湾にいて日本語で書くのは、敢えて誰にも顧みられない領域へ踏み込むことだ。長く続けるためには仲間が必要になる。彼等は日本語への複雑な思いを共有する歴史そのもの、私の言葉を守ってくれる祖国だった。言葉は私達の間で生命を与えられ、その言葉の喜びが生の喜びになる。ようやく私は自分の場所を見つけた。誰も立ち入らせたくなかった。誰かが侵犯しようとしたら死ぬまで戦っただろう。
 ところが老いと死は無遠慮に私の場所へ割り込んで来た。謝が死んだ時、『華麗俳壇』では追悼号を企画して皆が句を捧げた。その中の一句。

 風尽きて頭垂れたり昭和草 劉秋日

 昭和に入って台湾の山野で生い茂るようになった草を、誰が名づけたのか昭和草と呼んだ。食用になるので日本軍が空中から種子を蒔いたという噂があった。謝は昭和草の句を詠んでいて、私の歳時記に収められた。それを口ずさんで、死というのは少しの間会えなくなるだけなのだと言い聞かせても、侘しさは消えない。追悼号の句を得るのに随分時間がかかった。親しい者の死ほど悼む句を詠むのは難しいのだ。呉の時も同じだった。









このページの先頭へ
三国志に学ぶ勝利学

三国志に学ぶ勝利学

(潮出版社)

ハンスの林檎

ハンスの林檎

(潮出版社)

見果てぬ祖国

見果てぬ祖国

(潮出版社)

トキオ・ウイルス

トキオ・ウイルス

(ハルキ文庫)

東京難民殺人ネット

東京難民殺人ネット

(角川春樹事務所)