ウェブ小説 アジア

陽炎の島(7)
 娘を死なせたというのはあながち嘘ではない。母はまだ三十歳をいくつか過ぎたばかりで死んだ。一度は恢復して退院した後のことで、何かに騙されたような気がしたのを憶えている。母が療養院から戻って来ると知らされて、私は祖母にそこまでしなくてもいいと言われながら、彼女が寝起きすることになる離れの、壁や天井の黒い煤を払い、うっすら埃の積もった畳を拭き、湿気を吸って重くなった布団を干した。二年振りに家へ帰った母は、自分の家なのに遠慮して、幼い子供が側へ来ると、掌で口を覆って遠ざけた。父が素っ気無い態度で妹を膝の上に置いてやったら、小さく頷きながら涙を流した。
 しばらくは平穏な日が続いた。父は州庁で本島人として異例の出世をしたので機嫌が良かった。総督府へ出張することになった時には、両親を台北見物に呼び寄せた。祖父はまったく国語が使えず、祖母も挨拶ぐらいしか話せないし、初めての鉄道の長旅だったから、私が通訳として同行した。まだ恢復期にあった母は、幼い子供達と留守番をすることになった。旅に出ると、バスや列車の切符を買うのも、行き先をしるした表示を見るのもすべてが国語だ。台北は 南語の土地柄だから、昼食に入った食堂でも、荷物を預けに寄った旅館でも、祖父母の客家語は使い物にならない。ようやく総督府の父の元へ辿り着くと、祖父は、言葉は鋤や鍬と同じだ、よく耕せるのを選べばいいと溜め息をついた。私は祖父母を助けたことで父に誉められ、見たこともないほど大きな総督府を眺めて、いつかこういうところで働けるようになりたいと願った。
 三カ月ほどで出張から帰った父は、またいつもの、いや、いつも以上の不機嫌な男になっていた。母が身の回りのことをしようとしても寄せつけずに、わざと祖母を呼んで用を足す。私に対しても冷淡で、ふざけて手を使わないで食事をしたら、まるで他人を見るような眼をして、
 ――犬の仔に行儀を教えてやれ、と母を促した。
 そんな日が続いて、私が公学校から帰ると、風呂敷包みを持った母が待っていた。訳も分からないままバスに揺られ、何時間も歩いて着いたところは、初めて訪れる母の生家だった。この家は、私の家とも、山奥の父方の祖父母の家とも違っていた。糞尿と何かが腐った匂いの混じり合った異臭がした。調度品らしい物は、ひび割れた食卓だけで、部屋の隅にある木製の寝台に、歯のない、小さく萎びた老人が寝そべり、長いキセルを咥えて無表情に白い煙を吐いている。そしてどこででも放屁する声の大きな老婆と、手掴みで物を食べるのっそりした右眼のない若者がいた。これが母の両親と弟、私の祖父母と叔父だった。祖父は阿片を吸うようになって働かなくなり、自分の娘を金で手離した。器量がいいので売春窟へ売られるはずだったが、気が利いて頭も良かったから、裕福な家の女中として雇われた。父はそこで母を見初めて、その家が支払った金を肩代わりして結婚したのだ。
 まるで異邦の村だった。誰も国語ができない。母の生家には書物どころか暦さえなく、文字と縁のない暮らしをしている。あちこちに伝染病で死んだ豚を焼く煙が黒々と立ち昇り、隣の竹藪には家のない老婆が住みついていた。野犬が餌を奪い合い、裸同然の親子が家々へ薪を届けて歩く。働ける子供は農作業に出ていて、昼間から村にいるのは物乞いに来る瘡蓋だらけの孤児ぐらいだった。私は一人でビー玉やメンコをして、飽きるとバッタ取りかスッポン釣りに出かけた。
 ある午後、家へ水汲みの聾唖の少女が飛び込んで来た。垢じみた顔を悲しそうに歪め、アー、アーと悲鳴に似た声を上げる。祖母も母もいなかった。祖父は寝台から動く気配がない。戸惑っていたら、奥から出て来た叔父を見て、表へ引っ張って行った。すると道に竹藪の老婆が倒れてもがいていた。ぼろぼろの衣服の裾がはだけて、臀の辺りに薄汚れた犬が咬みついている。その口からは泡のような唾液が吹き出て、人の血に染まっている。
 叔父は遠巻きにしている村人に混じって、首を傾げてそれを見ていたが、薄笑いを浮かべながら家へ入り、両手に薪を握って戻って来た。後ろから犬に近づいて、獲物の肉を食いちぎろうと振っているその頭を殴った。ギャンと鳴き声が上がった。反射的に飛び退いた犬は、ぶるんぶるんと頭を振り、口から泡を吹いて凶暴に歯を剥き出す。叔父は一方の薪で挑発して、犬が咬みついた途端、もう一方の薪を力任せに叩きつけた。薪は何度も振り下ろされ、頭蓋骨の陥没する鈍い音がし、血とどろどろした何かが飛び散る。吐き気がして、思わず眼を逸らした。犬は崩れ落ちたまま脚を痙攣させて動かなくなった。犬の屍骸は、飢えた者が食うといけないからと、村人が伝染病の豚と一緒に焼いた。それからしばらくして竹藪の老婆は口から泡を吹いて死に、叔父は頼まれて何匹も狂った犬を殺した。私は長く舌を垂らして死んだ血塗れの犬の顔を繰り返し夢に見た。
 家にいるのは嫌だった。私は陽の出から暗くなるまで、母や祖母と畑を耕し、作物を行商して歩いた。公学校までは歩いて三時間かかったから、教室に戻りたいという望みは叶わなかった。母は生家で暮らすようになってからも私と話す時は国語を使い、夜には本を読んでくれた。私にはそれが唯一の救いだった。母と私だけの秘密基地を作っていたのだ。叔父は私と母がそうしていると癇癪を起こして、いつかの夜は本を取り上げようとした。外へ逃げる私を、狂った犬を殺した時と同じ素早さでねじ伏せる。私は母に本を投げた。母はそれを抱いてうつ伏せになったが、恐ろしく力が強いので適わない。
 ――やめろー。
 私は大声で叫んだ。祖母は煩わしそうにちらっと見ただけで、祖父は置物のように寝台へ横たわって阿片を吸っている。濁った眼をして、叔父は獲物を引き裂いた。私はばらばらになった本(それは志濃先生から借りた黒岩涙香の『噫無情』だった)を見ながら、ここは自分のいる場所ではない、と思った。父やきょうだいに会いたいとは思わなかったが、みなのいる場所が無性に恋しかった。
 毎年配られる皇大神宮の大麻を家に祀ってあるかどうか、警察が抜き打ちで調べに来ることがあった。近所から回って来たと報らせがあると、祖母はしまっておいた大麻を馬祖の上の壁に張った。その時は祖父も寝台から起き上がって、畑仕事の振りをして外へ出て行く。たまたま家にいた私が、内地人の警官に話しかけられて、普通に応答をしたら、国語が上手だが、本当にこの家の子供か、と訊かれた。私はこの家の子供になる気はなかった。なぜ自分達だけがこんなところにいるのかという質問に、きっとお父さんは迎えに来てくれる、と母は応えた。それから何か月か経って、本当に父が訪ねて来た。
 ――用意しろ。帰るぞ、と言われた時には、私は思わず涙を流した。
 ところが一緒だと思っていた母は残すと言う。どうすればいいのか分からなくなった。志濃先生や友達のいる場所へ戻っても、母がいないのでは嬉しさも半減だ。そのうちに、一度捨てておいてそんな身勝手なことがあるかと、怒りが込み上げて来た。何を言われても返事をせずにいたら、父は黙って一人で帰って行った。私を哀れそうに見ていた母は、翌年になって結核を再発させた。ある日畑で血を吐いたのを見て、バスに乗る金もなかった私は、一昼夜歩いて父に窮状を訴えに行った。母はまた療養院へ戻り、私は凶暴な叔父のいる文字のない家から、父ときょうだいのいる『国語の家』へ戻った。
 国語の世界に復帰した私を、志濃先生も、友達も、俳句結社の同人も、みなが快く歓迎してくれた。でも、私の中ではそれまでと何かが違っていた。久し振りの句会で志濃先生が愉しそうにしているのを見て不快になった。彼女は特に主宰の柴田やその家族と親密で、内気な良悟が打ち解けた調子で話している。この風景から自分を引き算してみて、恐らく私のいない間もこんなふうだったのだと思ったら、良悟への嫉妬が生まれた。母の生家での暮らしが蘇って、自分がどちらにも属していないのを感じた。台湾人であることを初めて意識した。説明のつかない苛々した気持ちになった。
 三時のお茶の時間に、二人で双六をしていたら、良悟が先に上がりそうになった。私は詰まらないずるをした。いつもなら笑っている彼が見逃さずに元に戻せと言い募る。怒らせたくなって、僕の出した句が褒められて、志濃先生に良い所が見せられなかったから、そんなことを言うのだろう、と挑発した。すると良悟は見たこともない激しい表情になって私の腕を捻上げた。
 ――チャンコロ。
 その言葉は知らなくても、言い方や響きから侮蔑であることを直感した。家へ帰って父にそのことを言ったら、一瞬険しい顔つきになった後、すぐにふんと笑って、
 ――ケダモノのくせに、と言った。
 ――ケダモノ。
 ――そうだ。勝手に人の家へ上がり込んで、鍋釜に鼻先突っ込んで食い散らかす輩。畜生の類だよ。
 私は父からチャンコロの意味を聞いて良悟を憎んだ。次の句会でみなが庭に出ている時に、こっそり母屋の風呂場へ忍んで、水の張ってある湯船へ脱糞した。それからは句会へ行かなくなり、公学校は四年生からやり直すことになって担任が代わったので、志濃先生の部屋を訪ねるのも止めた。彼女は翌年台北の公学校へ転任して行った。私は毎週バスと列車で母の療養院へ見舞に行った。そうしないと自分を維持することができなかった。父に捨てられたという蟠りも苦しい傷として心に残っている。母だけが無条件に私を受け入れてくれた。その死は、私から父を許す機会を永く奪うのと同時に、私のいる場所をも奪った。八月の暑い盛りに、体力の衰えていた母は、太陽の酷熱が堪えかねたように息を引き取った。
 翌々年、父の意向で強制的に中学を受験させられて、ほとんど本島人のいない学校へ通うことになった。入学式から間もないころ授業を終えて校門を出たら、後ろから誰かが鞄を取り上げて逃げて行く。追いかけると、神社の境内に出た。数人の制服を着た上級生が待っていて、相撲を取ろうと迫る。彼等は入れ替わり私を投げ飛ばして、腹や背中の上へ飛び乗った。延々と続いた相撲は、誰かの革靴に唾を吐きかけてやったことで終わった。ひどい姿で帰った私に、
 ――誰にやられた、と父は訊いた。
 ――転んだ、と私は応えた。
 その夜は血尿が出て発熱し、全身の痛みと怠さで眠れなかった。翌日はわざと両手両足に包帯を巻いて、即席の松葉杖を突いて登校した。私は一つの呪文を持った。公学校の時に観たニュース映画で、銃を構えた兵士が標的を狙い定めて、指揮官の「テーッ」という号令でいっせいに銃声を轟かせる光景があった。私は嫌な上級生を見かけたら、口の中で「テーッ」と呟いて、血を流して倒れる姿を想像した。昼休みには、校庭のユーカリの樹の下で本を読み、放課後になると、学校の裏山へ登って樹の幹に切り出しを投げつけ、一人だけの軍事教練を行なった。
 ある午後の授業中に、この山の上空へ轟音を響かせて戦闘機が現れた。窓から顔を出すと、すぐ後ろからもう一機が追って来る。二機は蜂のように飛び交いながら機銃を撃ち合い、一機が黒い煙を上げて墜落した。私は他の生徒や教師と一緒に、「万歳、万歳」と叫んだが、見つかったのは日本の戦闘機の残骸だった。年が開けて毎日のように空襲警報が鳴り響くようになった。そしてその夏、
 ――今日から日本語を話すな、と父が言った。
 それからしばらくの騒動は興味深い見世物だった。町の大通りのバス停に大きな荷物を抱えている内地人の男がいた。そこへ通りかかった本島人の若者が、「鬼子」と叫んで殴りかかった。男は荷物を振り回しながら逃げ出したが、同じ通りを、傲然と胸を張って、着物姿で小唄を口ずさみながら歩く男もいた。内地人の警官や兵士が襲われ、残務整理に残った柴田の家では、良悟の姉が外出する時に中国服を着せたらしい。彼等が引き揚げる日には、家の外に本島人が群れていて、家族が出た途端にみなが中へ入って使える物を漁ったという。
 台湾という船に新しい乗務員が乗り込んで来た。閉鎖されている学校へ行ってみると、校庭のポールから日章旗が外されて、図書室の書架には書籍がない。がらんとした職員室に本島人の教師が数人いて、謄写版を囲んで作業の最中だった。一人が私に気づいて、刷り出したばかりの、近く始まる授業の教材を無造作にくれた。北京語のテキストだ。これが新しい国語なのだ。ざらざらした藁半紙の、漢字ばかりのページを眺めながら、大きな徒労感に襲われた。私が身につけた言葉はもう外国語だった。翌年には台湾行政長官公署によって日本語が禁止された。









このページの先頭へ
三国志に学ぶ勝利学

三国志に学ぶ勝利学

(潮出版社)

ハンスの林檎

ハンスの林檎

(潮出版社)

見果てぬ祖国

見果てぬ祖国

(潮出版社)

トキオ・ウイルス

トキオ・ウイルス

(ハルキ文庫)

東京難民殺人ネット

東京難民殺人ネット

(角川春樹事務所)