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陽炎の島(6)
 靄のような切れ切れの雲をまとった朧な満月の下の、ネオンと蛍光灯の光が眩しい硝子張りの四角い箱の中では、秀麗がカウンターの椅子に一人で腰かけていた。私はその姿を月の周期に伴って時々見る艶かしい夢の中で見たような気がした。いつまで眺めていても同じことだ。思い切って広い道路を渡って、スタンドのドアを引いた。秀麗はゆっくり顔を上げてこちらを見たのに、淡い鳶色の瞳には、まるで表情らしいものが浮かばなかった。「コーヒー」
 私は一番端の椅子に腰を下ろした。黒革のノースリーブのワンピースを着た彼女はヘッドホンを外して、無言で自分の仕事を終えると、またヘッドホンをかけて日本のファッション雑誌を読み始める。
「ありがとう。君も何か飲まない」私はさり気なく声をかけた。
 黙って俯いたままの彼女に、居たたまれない思いで熱いコーヒーを飲んで煙草を吸った。どうすればいいのだろう。この間スタンドの前を行き過ぎた時も、檳榔の箱を持って出て来た彼女は、はっきり私を見たのに、まったくの無表情で車の客に品物を渡して、何事もなかったようにスタンドへ戻って行き、さっきまでと同じように雑誌のページを捲った。
「秀麗、話を聞いて」私は遠い向こう岸の誰かに叫ぶような気持ちで呼びかける。「秀麗」 彼女は大きな吐息をつくと、ヘッドホンを外して首にかけたまま、煩わしそうにこっちを向いた。
「この間は悪かった。無神経なことを言った。でも、悪気はなかった。君を保護しようとか、そんな思い上がった気持ちじゃなかった。ただ……何て言えばいいのかな……」
「もういい」あっさり彼女は言った。「気にしてないから。私、面倒なの嫌いだから」
 私はそれ以上何も言わずに、大人しくコーヒーを飲み、もう一本煙草を吸い、勘定を支払ってスタンドを出た。この間追い払われてからの時間の空白(もう年が改まっていた)のせいで、臆病で疑い深くなっている私の頭は、言われたことを慎重に吟味したが、だからといってどうしようもなかった。本人が気にしてないと言うのだから、それを信じる外には、声を聴くことも、姿を見ることもできないのだ。私は、発作的にタクシーを走らせ、椰子の木陰からスタンドの様子を窺ったりするよりも、知らない素振りをしてまた会いに来ることを選んだ。何度目かで怖々と朗読の依頼をしてみたら、秀麗は拒まなかったばかりか謝礼も受け取った。ほっとした反面、この先は声を聴くだけで満足しなければいけないのだろうなと考えた。私は掌に載せたシャボン玉を眺めているような気持ちだった。
 三週間後のある午後、彼女はまたどこか苛々していた。言葉には意地の悪い刺があり、気分が乗らないからと朗読を拒んだ。中正国際空港からの帰りのバスの中で、どこで地雷を踏んだのかと考えていたら携帯電話の着信音が鳴った。驚いたことに秀麗からのメールだった。「温kasouna 雨ga 降tteru」。戸惑った。私達は携帯電話のメールで時候の挨拶する関係ではなかった。漢字とアルファベットの組み合わせが意味することは分かっても、言葉の奥にあるものが掴めない。眼を上げると、窓の向こうでは、明るい灰色の街の、ビルや道路に大粒の雨が当たって弾け、車のタイヤが水飛沫を上げている。四角い水槽のような硝子張りのスタンドの中で、私と同じように雨の街を眺めている、怠そうな秀麗の姿が思い浮かんだ。二人で同じ雨を見ていると思うと、見慣れた風景に鉤括弧がついて、隅々までが瑞々しい何かで満たされていく。雨の一粒一粒、濡れそぼった樹木、道路の白線までが、特別なものになる。
 彼女のやり方に倣って返信のメールを送る。「今busno中 此處demo 雨ga見eru 温shower no樣」。しばらくしてまた着信があった。「死nu程美味sii物ga食betai」。信じられなかった。食事の誘いだ。朗読を拒んだことの、彼女なりの詫のつもりなのだろうか。待ち合わせの時間と場所を打ち合わせていたら、メールを使いこなす老人が珍しいのか、隣に坐っている引き伸ばされたように座高の高い若者がディスプレーを覗き込んで来た。彼は漢字やアルファベットを読めても日本語が分からないだろう。私はわざとゆっくりキーを打つ。
 夜には雨もすっかり上がった。私は彼女の望みを叶えてやれそうな場所に思いを巡らせて、フランス料理を食べさせる珍しい屋台へ連れて行った。タクシーを降りた大通りの公園沿いの一角には、いつものように客が群れていて、煩わしいぐらい陽気な北京語や 南語が飛び交っている。秀麗はやはり機嫌が良くなかった。何を話しかけてもほとんど返事をせずに、水でも飲むようにワインを飲み、ひっきりなしに煙草を吸って、物珍しそうな視線に晒されていた。台湾ではあまり若い女性が人前で酒や煙草を嗜むことはない。何か事情のありそうな飲み方に、私の方は控え目にしていたら、一人でワインを一本空にして、少し酔った口調で、
「私、劉さんの娘とか孫とかに似てるの?」と訊く。
「どうして」それは意外な質問だった。
「何か事情があって会えないから、私に会いに来るのかなと思って」
 隣にいた中年の男が連れの女性に、ほら、日本人だよ、と囁くのが聞こえる。
「……ああ」私の口からは思ってもみない言葉が出た。「僕には秀麗と同じぐらいの娘がいたんだけど、病気で死んだ。君と会って、彼女のことを思い出した」
「名前は」
「淑真」
 秀麗が小さく頷いて沈黙したのを見て、私はふっと肩の力が抜けた。
「死ぬってどんな感じなのかな」彼女は質問というよりも独り言を呟くように言った。
「人間はみんな一枚の白い地図を持ってる。そこへ自分で体験した出来事を描き込む。昔は歳を取れば、白い部分が埋まると思ってた。確かに埋まってはいくんだ。でも、なかなか埋まらないところもあるし、白い部分が増えることもある。僕の地図の白いままの部分は、若い娘の気持ちと、死ぬってこと」
「要するに、死んでみないと分からないってことでしょ」
「でも、君よりはリアルに想像できる。恐らく眠るみたいなもんだと思うよ」
「じゃ、いつかまた眼が醒めるわけか……それも嫌」
「人生が望むものでなかった時にはどうするか。一つは我慢する。もう一つは望むものに近づける努力をする。うまくいくとは限らない。でも、我慢するのが嫌ならやるしかない。子供が気に入らない玩具を捨てるみたいに、ぽんと捨てるわけにいかない」
「少年課の親父みたいな話やめてよ。自分はうまくやれたわけ?」
「何度も挫折してる。でも僕の背中には、駱駝みたいな瘤があって、エネルギーが蓄えられてる。だめになりそうでも、また復活する」
「私には、そんな便利な瘤なんかないよ」
「あるよ。この島で生まれた人間にはみんなある」
 隣の中年の男が、グラスを挙げて、「カンパイ」と日本語で秀麗に微笑みかける。彼女は聞こえない振りをして、黙ってワインを口に含んでいたが、やがて白い喉を上下させた。「死ぬって淋しいんだろうね」
「生きてるのも淋しいさ。だから人間は言葉を持ったんだ。……秀麗、俳句、知ってる?」
「ハイク。……五七五の?」
「そう。やってみない? 僕はね、俳句の雑誌出してるんだ。そんなに難しくないよ。五七五のリズムが身につけば、呼吸するみたいに作れる。…そうだ、携帯持ってるでしょ」
 試しに、後でメインディッシュの味を俳句にしてメールしてみて、と言ったが、今夜はそんな気にならない、と首を振る。やがて仔鳩の蒸し焼きが出て来ると、脂の乗った柔らかい肉を不味そうに口へ押し込んだ。私は地雷を踏まないように注意しながら、彼女の気持ちを引き立ててやろうとしたが、言葉が素通りしていくばかりだった。ずっとそんな調子でデザートになった。彼女はふるふる揺れるマンゴープリンをスプーンで掬い、何度か口へ運んでから、
「欲しい物があるの」と言った。
「何」
「腎臓」
 私はメニューを見た。この屋台にそんな料理を置いていただろうか。
「違う。劉さんの腎臓」
 秀麗はバッグか指輪でも強請るような言い方で繰り返す。私は言葉が出なかった。
「私の腎臓、もう寿命なの。このままだと人工透析になって、そのうち死ぬの。だから誰かの腎臓が欲しいの。手術のお金も」
 深刻さを感じさせない軽い調子だった。車のキャブレターが古くなったから、取り替えなければ廃車になってしまうと聞こえた。
「手術の費用は、いくら」
 彼女が応えたのは、私の年収よりもやや少ない額だった。貯えから出せないことはなかったが、突然のことなのですぐには返事ができない。
「ちょっと待ってて」
 私は立ち上がって屋台から少し離れた公園のトイレへ急いだ。秀麗と過ごす時間を中断するのが惜しくて、もう少しもう少しと先延ばしをしているうちに限界がきていた。大通りの角を曲がると、壊れた水道のように尿が漏れ出して、トイレが見えた時には、下着からズボンにまで滲みていた。濡れた下着を捨てて、ズボンを濡らした尿をハンカチで吸い取ったが、全部は乾かない。冷たい染みのついたズボンをコートで隠して屋台へ戻った。待っていた秀麗に、さっきの話は考えて返事をする、タクシーで帰りなさいと紙幣を出すと、彼女はそれを受け取らずにMRTの入り口の方へ歩いて行った。毒々しいほど赤いネオンを浴びて、意外にしっかりした足取りで遠ざかるその姿を眼で追いながら、私の頭の中では、腎臓が傷んでいるから移植をしないといけない、放って置けば死んでしまう、という言葉がぐるぐる巡って、いつか本当に自分の娘を死なせたことがあったような気になっていた。









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