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陽炎の島(5)
 私の血管に日本語が入ってきたあの頃、老いの果ての死はずっと遠くにあったし、戦争もまだ身近に迫っていなかった。明仁親王の生誕を祝う提灯行列に加わって、万歳を叫んで声を嗄らし、帰りに紅白饅頭を貰ったことを憶えている。子供にとっては穏やかな時代だった。私の日課は、青々と続く田圃での騎馬戦や、関帝廟のある広場での野球で、たまに祖母と隣の家の畑仕事を手伝った。私はすでに学齢に達していたものの、公学校は義務教育ではなかったし、家からの距離が三、四キロあって、子供の足では通学に一時間近くかかったので、入学したのは九歳の時だった。村は米と砂糖黍を作る貧しい農家ばかりで、子供は季節に関係なく裸足で走り回っていた。登校する時には教科書を包んだ風呂敷を肩へ襷がけにし、校門の前で家から持って来た運動靴を履いた。
 父は私にみなが羨ましがるキャンバス地の鞄を与え、村長の家にしかなかったラジオを買い入れた。そして私の就学に合わせて、名前を日本式に変えた。抵抗した祖父母はそのままだったが、私は劉秋日から青野秋夫になった。父は細い筆で、教科書、ノート、筆入れ、鞄、靴に、新しい名前をしるした。それはどれも全然知らない他人の持ち物のように見えた。学校で出席を取る時も、「青野」と呼ばれると、自然と返事をする声が小さくなる。友達は私を「秋夫、秋夫」とからかい、家を訪れた祖父は、玄関に掲げられた毛筆の表札を見て、歯でも痛むように眉を顰めた。
 公学校は本島と異なる内地の文化や、その文化を持ち込んだ人々と出会う場所だ。すでに内地人の句会へ通っていた私にとっても、真新しいことばかりだった。一日は二千人近い生徒がゆったり集える広い校庭での朝礼に始まる。「国旗掲揚」の号令で日の丸が掲げられると、いっせいに皇居のある東の方角へ向かって深々と頭を下げ、厳かに君が代を斉唱した。私は父のお陰で簡単な読み書きや会話ができるようになっていたが、ほとんどの生徒はそれまで客家語しか話したことがないのに、公学校では国語以外の使用を禁じられた。一年生の担任は、陳友光という本島人の男性教師で、細い竹の棒を腰のベルトに差していた。生徒が客家語を口にすると、白眼の多い眼で睨み、両方の掌を差し出させて、ピシッと音を立てて打った。
 私は『国語の家』の出身だったので、教師の補助として何人かの級友を教えることになった。憶えが悪い者には体罰を与えよと言われて、担任に倣って竹の物差しで掌を打った。授業の合間に廊下や校庭で遊んでいると、思わず客家語が出てしまうことがあった。彼等はハッと掌で口を覆って私の顔色を窺う。私はズボンのポケットに差している物差しを取り出す。すると級友は仕方なさそうに掌を差し出す。私にしてみればこれは一種の遊戯のようなものだった。そんなある日、体操の授業を終えて教室に戻ったら、二つに折った竹の物差しが机の上へ投げ出してあった。相当の力を加えなければ折れる物ではない。私はそれから担任の真似を止めた。
 一年間は公学校が好きか嫌いかを考える余裕もないうちに過ぎた。二年生は北沢志濃という朗らかではきはき喋る内地人の若い女性が担任になった。よく通る澄んだ声をしていて、白秋の『落葉松』や漱石の『我輩は猫である』を、教室を巡りながら朗読した。自分で買って来た講談社の童話で学級文庫を作って自由に貸し与えた。毎週金曜日は「和服の日」で、女子は着物を着て登校することになっていたが、その日は志濃先生も御雛様のような装いになり、生徒の帯や裾を一人ずつ直して、
 ――よくできました、と抱きしめた。
 女子は休憩時間も志濃先生を追いかけ回した。いつも誰かが側にいて、間借りをしている農家の離れには、放課後になると生徒が遊びに来る。女子はおはじきやカルタ取り、男子は紙相撲やメンコをして、電気の来ていない家の子供は宿題をする。時折白い半紙を敷いた盆の上に、甘納豆や芋羊羹を載せて出してくれた。
 私もいつの間にか志濃先生を好きになっていた。風に揺れる竜胆の花や、どこまでも高い青空や、鉱石の中で煌めく雲母や、私の心を震わせるすべての物を凝縮すると、彼女の姿になった。志濃先生から褒められたいために、せっせと勉強して級長になった。家庭訪問の時には、父母のほとんどが国語のできない「文盲」だったので通訳に指名され、片言の客家語しか話せない志濃先生の先に立って家々を巡った。
 ある家では隅の方で話を聞いていた老婆が近くへ寄って来て、不意に彼女の顔に手を伸ばしたので、戸惑ったように私を見た。何をするのかと思ったら、この先生は若くて綺麗だから、艶々した頬に触れてみたいと言う。それを通訳してやると、志濃先生は無理に笑みを浮かべて、されるがままになっていた。満足して手を離した老婆は、良い肌をしてる、取れ立ての桃のようだ、と眼尻の皺を深くした。
 ――青野君、凄いね。名通訳、と言われて、私が得意にならないはずがなかった。青野という日本名と私を和解させてくれたのは志濃先生だ。「aono」と彼女が発音すると、その名前が私にとっては最良であるように思えた。私の家へ来た時に、祖母は和室の卓袱台の上に烏龍茶ではなく緑茶を置いた。すっかりくつろいだ様子の彼女は、あ、茶柱が立ってる、と言った。私はこのうえなく幸福だった。
 工作の時間に彫刻刀で指を切ったことがある。傷が深く、血が止まらない。医務の教師は不在だった。志濃先生は、泣き喚く私を宥めながら、溢れる血で衣服が汚れるのも厭わずに止血し、消毒薬を浸した脱脂綿で、赤く口を開けている傷を丁寧に拭いてくれた。染みた。血と一緒に涙も止まった。私は消毒薬の匂いをまとった彼女をとても好ましく感じた。母と同じ匂いがしたのだ。
 この年の夏の朝、縁側で新聞を読んでいた父が、「いよいよだな」と大陸で戦争が始まったことを告げた。公学校の朝礼では、校長から、兵隊さんは御国のために命懸けで戦っている、我々も陛下の臣民として恥ずかしくない一日一日を送ろう、と訓示があった。私は何人かの級友と相談して、綺麗に洗濯した真っ白なハンカチに茶碗を包み、彫刻刀で指を切って円の部分に血を垂らし、手製の日章旗を作った。一度傷を負った痛みを思い出したが、躊躇う気持ちを押し切って、良く研いだ刃を柔らかい指の腹に当てた。できあがった血染めの日の丸を見た志濃先生は、蜥蜴でも踏み潰したような表情になった。私達は校長室に呼ばれて、こんなことを誰から教わったのかと訊かれ、新聞に内地の生徒が血で日の丸を拵えて兵隊さんに贈ったと書いてあったから、と応えると、校長はじっと私の顔を見つめて、
 ――行ってよし、と言った。
「国防献金の日」が設けられると、「和服の日」に志濃先生から抱きしめられる女子を羨んでいた私は、父から貰った小遣いを足して、できるだけ多く献金した。それから間もなく戦場の兵士への感謝を込めて、「日の丸弁当の日」が設けられた。生徒は家から御飯だけの弁当を持って来て、一人に一つずつ梅干しが支給される。級友の中には不満を洩らす者もいた。私はどんな料理よりも、志濃先生が生徒の間を回って、箸で一つずつ御飯の上に置いてくれる梅干しが好きだった。彼女は弁当を持って来られない貧しい生徒を用務員室に呼んで、手作りの握り飯を渡していた。
 三年生の担任は持ち上がりだった。級友はみな喜んだ。弾んだ気分の勢いで、私は志濃先生を句会に誘った。彼女は自分の生徒が俳号(私は本名の秋日を号にした)を持っていることに興味を惹かれ、どういう句を作っているのか訊く。私はいくつか自信作を教えて、面白いから句会へ行こうと繰り返した。
 ――そうね。面白いでしょうね。
 志濃先生にしてみれば、考えて置くというつもりの言葉を、私は重く受け止めて父に相談した。その翌月の日曜の朝、彼女は私と一緒に柴田の家へ向かうバスに乗っていた。句会に集うのは男性ばかりだったから、若く美しい教師は、少し心配になるぐらい歓迎された。彼女は、男性の同人からちやほやされることを、あまり迷惑そうにしておらず、どこか軽はずみにさえ見えた。それでも志濃先生との間に級友の知らない秘密ができたことで、私は俳句と国語がますます好きになった。それは校庭に掲げられる日章旗や、直立不動で斉唱させられる君が代にではなく、私と彼女の間に属する言葉、二人だけにしか分からない暗号だった。季語を知っている級友は一人もいなかった。
 句会のない日曜には志濃先生の部屋へ遊びに行くようになった。彼女は蓄音器でモーツァルトやベートーベンのレコードをかけ、オルガンで童謡やショパンの別れの曲を弾き、私にも弾き方を教えてくれた。今になって、志濃先生が私に関わったのは、夜になると療養院の母を思い出して、布団を被って泣いている生徒に同情したからだと分かる。しかし当時は私が志濃先生を好きなように、彼女も私が好きなのだと思っていた。
 夏休みの午後、いつものように志濃先生を訪ねた。私はつがいの白い文鳥を入れた鳥籠を提げていた。その何日か前に父が柴田から貰って来た内地の土産をこっそり持ち出したのだ。鳥籠の中の文鳥に話しかけながら、農家の離れへ近づくと、女性の歌声が聴こえてきた。澄んだ伸びやかな声だ。志濃先生に違いない。彼女が朗読したり、歌を歌う時の、少し張りつめた声が好きだったからよく分かった。私は離れの傍らに、鳥籠を提げたまま立ち尽くした。その歌声は、軒先から流れ出して、平凡な田舎道や、ガジュマルの樹や、土角の家を美しく染め上げていく。すっかり風景を変えてしまう。どれだけ聴いていても飽きない声だった。
 歌声が止んだのを見計らって、志濃先生に声をかけた。
 ――どうしたの、文鳥。まあ、綺麗。彼女は小禽に眼を見張って私を喜ばせた。
 志濃先生は鳥籠の中へ手を入れて、しなやかな指の背で、文鳥の滑らかな白い頭をうっとりと撫でる。そして思いついたように、コップに水を汲んで来て窓を閉めた。文鳥を指に掴まらせて外へ出し、水を含んで顔を近づける。血の透けた柔らかな唇が、硬く尖った嘴を包んだ。文鳥はそこに水があると知って啄む。志濃先生は眼を細めて、されるがままになっていた。
 蓄音器が奏でたのはイギリスの民謡だった。甘く淋しい旋律を、彼女は気に入っているらしく、何度か繰り返して聴いた後、今日はこれを教えてあげる、とオルガンの蓋を開けた。私は志濃先生の隣に腰かけた。
 開け放った窓からは風一つ入らない。お手本を弾いている彼女の横顔には汗が滲む。こめかみに何本かの毛が張りついて、鍵盤の上へ雫が垂れた。志濃先生の体は、いつもより熱を発散させて、汗と化粧の混じり合った匂いがする。私は自分の大きな鼓動が伝わらないように体をずらせて、滑りがちなオルガンの鍵盤を慎重に押さえた。
 志濃先生が手を止めて、タオルで首筋を拭いながら隣の部屋へ行った。向こうで呼ぶ声がする。
 ――はい。
 覗いてみると、ひどく慌てた彼女が、両腕で豊かな裸の胸を覆った。
 ――着替えるから、待っててって言ったの。
 軽く非難されて、私はオルガンのある部屋へ戻った。上の空で鳥籠の文鳥を指で突っついていた。しばらくして、白いブラウスに着替えて、髪を綺麗にまとめた風呂上がりのような志濃先生が、盆に井戸で冷やしたサイダーとコップを載せて現われた。
 それからは何を話したのかよく憶えていない。私の網膜にはハッとするほど真っ白な乳房の残像が残っていた。









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