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陽炎の島(4)
 小籠包の美味しいレストランとして、日本人向けの旅行案内に載っている公館地区の台北楼は、月末の日曜になるとシャッターが下りた。この日は、がらんとしたフロアに清潔な白いテーブルクロスを敷いたテーブルがコの字形に並べられて、全体を見渡せる席に坐った私が、ぼんやりと煙草を吹かしている。椅子を揃えたり、コーヒーポットを置いたり、細々と立ち働いているのは、店主の鄭仙居だ。彼は私と同い年の、『華麗俳壇』の創刊に関わった古顔で、僅かな費用で句会の会場と、贅沢な午餐、三時のお茶を提供してくれる頼もしいパトロンだった。
「雨だよ」
 上着を手で払いながら王子能が入って来て、その後ろから途中で一緒になったらしい張秋香が現われた。
「傘へ入っていけばいいのに。風邪引くわよ」
 秋香がハンカチを差し出したのに手を振って、
「これくらい」と王は笑った。「雨に濡れたら雨の句。風邪になったら風邪の句」
「風流だね。風邪の句、いいのができたら歳時記に入れよう」私が言った。
「王さん、ぜひとも風邪引かなきゃ」鄭が言った。
「だめよ、年寄りはすぐ肺炎になるから」
 やがて結社の同人が次々とやって来て、三十席のテーブルはほぼ埋まり、あちこちに賑やかな日本語が零れた。ほとんどが日本領の時代の国語教育を受けた台湾の婦人で、日本人は菱木の他に仕事で台湾へ赴任した会社員の夫妻だけだった。
「では、今月の兼題句、届いた順に読み上げます」進行役の王がよく響く低い声でメモを読み始めるとフロアは静かになった。
 台湾には早くから台北俳句会という日本語俳句の結社があった。主宰の黄霊芝は天分に恵まれた俳人で、私も懐の深い人柄に惹かれて籍を置いたが、一九七三年に仲間と俳句誌を創刊した。戒厳令下で名称に「台湾」を冠するのは危うかったから『華麗俳壇』とした。禁じられた日本語を使う者は政府の監視を受け、句会をしていると、隅の方に未知の人物が坐っていて、話しかけても返事をせずに、いつの間にかすうっといなくなる。私の思い過ごしかも知れないが、気味が悪いことに変わりはない。戒厳令が解けてからはだんだん自由になってきたものの、日本語への制約は微妙に残っている。結社の会員が五十人ほどしかいないのは、公に宣伝ができないからだった。
 私達が日本語で表現してきた理由はさまざまだ。日本人は、日本語を話す年配の台湾人がみな郷愁を求めていると短絡するが、そんなに単純ではない。鄭が午餐の皿を運んで来る若い妻に出す指示は 南語だし、国民党が台湾を統治してから生まれた子供と話すのは北京語だった。家の中では 南語と北京語が〃公用語〃になっているのに、日本語を手放さないのは便利だからだった。
「漢文の本は難しくて読めないよ」と彼は言った。「漢字ばかりで眠くなる。書くのは平仮名の方が簡単。さっと書ける。時間の節約になる」

浜風やイロハニホヘト散りゆきぬ 鄭仙居

 砂に指で書いたイロハが強い浜風で少しずつ消えていく、というこの句には、文房具が貴重品だった時代に、砂浜をノート代わりにして文字と戯れた幼い頃の体験が詠み込まれている。私も鄭も十七歳まで日本語で生活していたのだから、使い慣れた言葉が便利なのは自然なことだ。
 王子能の場合は少し違っている。私より一つ下の彼は、日本が台湾を捨てたあと自らに日本語を禁じて北京語を学び抜き、台湾大学で建築学を講じるまでになった。四十代の終わりに中学校の同窓会誌から寄稿を依頼されて、断り切れずに原稿用紙へ向かい、三十年以上も使わなかった日本語で書き始めると、当時の記憶が瑞々しく蘇った。家でも大学でも不自由しないほど新しい国語を使えるようになっていたが、感覚的な表現は、北京語だと薄い皮膜が一枚あるようなのに、日本語だとじかに物を掴んでいるようだった。
「内地人の先生に野球を教わった。放課後の校庭を裸足で走った感触や、先生の号令の響き、暮れ方の空の色を生々しく思い出した。白黒の風景に色がついた感じだったね」
 王はこの体験から、日本語という回廊を通って、少年の頃だけの叙情的な世界へ赴くのが愉しみになった。

 叢のボールは何処へ鰯雲 王子能

 句会では、私の左隣りに王が坐って、右隣には結社の有力なパトロンの一人で、設立当時からの同人である事業家の曽世昌が坐る。彼にはこんな句があった。

新正の蒼穹つつみて日章旗 曽世昌

 台湾には、旧正月と日本領の時代がもたらした新正月がある。祝祭の気分は旧正月の方が強いが、光復後も新暦を使うようになったせいで新正月は残った。親日家の彼は、初めて句会へ参加した日本人に、下の息子の嫁が吉田松陰と同じ長州人であることを自慢して、ベルリン・オリンピックの時に歌われた『あがれ日の丸』という歌を口ずさんでみせる。菱木はその洗礼を受けた時に、ひどく戸惑いながら、
「日本人は何か台湾で良いことをしたんですかね」と訊いた。「教育は成功した」と曽は右手の人差指を立てた。「良い日本人は特攻隊でみんな死んだ。台湾にはまだ良い日本が残ってる。私はいつも日本の方に言ってます。日本の一番良いところ見たかったら、台湾へおいでなさい」
 菱木は頻りに〃カルチャーショック〃を繰り返した。私達は曽が歓待の心の厚い台湾人であると同時に、大の字のつく大陸嫌いなのを知っているから、ただ笑っているだけだった。動くことで句会を心地良くする鄭と対照的に、彼は坐っているだけで句会らしい空気を作る。
 台湾人が日本語を使う理由は層を成していた。もっと若い会員になるとさらに事情が違う。年配者に遠慮して隅の方に坐っている許紅梅は、私大の日本語学科の女子学生で、日系企業に勤める父親が学んでいた日本語に関心を持った。彼女に誘われて参加した男子学生の邱維泰は、いつか若者の率直さで菱木にこんなことを言った。
「私の祖父は大陸出身で――ごめんなさい――日本に良い感情を持ってない。南京大虐殺とかありましたから。でも、祖母は台湾出身なので、日本が好きです。私は、卒業したら、日本と貿易したいです」
 台湾には五つの語族がいる。福建系の 南語族、広東系の客家語族、先住民の語族、大陸の公用語である北京語族、日本領の時代に教育を受けた日本語族だ。光復後の国語は北京語だから、他の言語は人口が減少している。特に日本語族はひどい。許と邱は稀な存在だった。しかし学生は卒業して日本語と関係のない仕事に就くと句会へ来なくなる。二人が結婚して子供の子供が生まれる頃には、台湾の語族は四つになっているかも知れない。
『華麗俳壇』でも、去年は創刊からの同人で、同郷の謝坤成が死んだ。私は自分の半分が死んでしまったようで、しばらくは俳句を見るのも嫌になった。他にもまだ重い病気を患っている同人がいる。卒寿を迎える呉嘉徳は、二カ月前に心筋梗塞で入院した。長く務めた結社の事務方は妻の秋香へ引き継がれたが、気分が良いとベッドに起き直って歳時記を捲っているらしい。ついさっき夫の兼題句を持って来た彼女から最近の容体を聞いた。
「好きなことしてるうちは大丈夫でしょ。血管に流れてるのは血じゃなくて俳句だから」
「じゃ、貧血にならないように」私は自分の新しい句集のゲラ刷りを手渡した。「新しい血を輸血してやって」
「血圧が上がり過ぎるかも知れない」
「心配ない。僕の句は健康食品みたいなもんだ」
「分かりました。先生の元気にあやかれるように」
 秋香は注射器に見立てたゲラ刷りを腕に刺す仕草をして、鼻の頭に皺を寄せて笑った。あの大戦中、陸軍病院の看護婦として大陸に従軍し、少なくない死者を看取ってきた彼女の言葉には、いつもこちらを励ます響きがあった。その繊細な気遣いは、初めて参加した者でもすぐに溶け込める温かさを句会にもたらした。結社の古い同人は、彼女から朝起きて血圧を測るように勧められて実行している。私は今朝も日本製(中の機械は台湾製)の血圧計を使った。グーンと低く唸って帯がきつく締まり、やがてピッ、ピッ、ピッと脈拍を表わす電子音が鳴る。規則正しい血管の収縮運動は、空に浮かぶ星の運行を支えるのと同じ何かに則っている――そう秋香は言った。
 私にとっては、この何かに迫る試みが俳句だった。俳句は、眼ではなく、舌だ。見るよりも味わう。雨の姿を描くのではなく、降る雨そのものになる。うまくやればそれができる。俳句にとって私は価値のないものだ。しかし私に俳句がなければ半分しか生きていないことになる。









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