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陽炎の島(3)
 台湾を旅行する日本の若い娘に、どこで日本語を学んだのか、と訊かれたことがある。私は少し意地悪く、
「あなたの日本語もお上手ですね。どこで勉強されたんですか」と訊き返した。「私はね、日本人だったんですよ」
 すると彼女は、北海道の生まれか、と言った。友人と言葉使いが似ているというのだ。笑っているしかなかった。生まれたのは台湾本島の真ん中辺りにある小さな村だ。彼女が日本だと思っている土地へは行ったこともない。
 父の劉明信は、山奥の、南瓜と砂糖黍を栽培する貧しい農家の出身だが、日本語は今の私よりも巧みだった。
「うちの豚は丸々太ってた。よく飼育のこつを訊かれたよ。要は餌だよ。ちょっと工夫すればいいんだ」
 晩年の父は、酔っ払うと『十五夜お月さま』を口ずさんで、遠い昔を昨日のように語った。彼が豚の売買で家計を助けたのは、本島人の子弟が通う公学校へ入ったばかりの頃だった。教室では親が無筆と思えない才知を現わして教師に可愛がられ、卒業と同時に用務員の仕事を貰い、夜は中等教育の個人教授を受けることができた。やがて州庁に採用されて人生を拓くきっかけを掴んだと思ったら、同期で入った内地人の佐賀の男が先に昇進した。父が他の本島人よりも優遇されたのは〃国語〃の能力のお陰で、成人する頃には内地人と間違われるほどだったのに、若かったから躓きの原因を言葉の未熟さに求めた。
 父の国語熱は家族にも及んだ。結婚した黄淑真には普段から客家語を禁じた。母は物心ついた私を抱いて、蓄音器で童歌のレコードをかけ、絵本を読み聞かせた。寝る時には頭を撫でながら、
 ――いい夢が見られますように、と囁く。
 父は妻にわざと難解な言葉で話すことがあった。声は苛立った不機嫌な響きを帯びている。満足に学校へ行けなかった母は、夫の表情から意味を読み取ろうと、大きな眼を見開いて顔を見詰める。すると、
 ――牛や馬でも、おまえよりましだ。皮肉に言い放った。
 赤ん坊を死産すると、母は乳の匂いがして、よく泣いた。本を読んでいたら、声が震えて何かがページに滴る。振り仰いだ顔は笑っていて、指が涙を本に擦り込む。私が客家語を使うと哀しそうに叱った。母が結核で療養院へ入った時、乳と涙の出過ぎで病気になったと思ったが、祖母は本の読み過ぎだと言った。
 私の家は『国語の家』という日本語を常用する家庭だった。普通の台湾家屋と違って畳敷きの和室があり、神棚には皇大神宮の大麻が祀ってある。大陸から移り住んだ祖父は、息子の国語熱を歓迎しなかったが、彼が持って来る米や酒がそのお陰であることを知っていたから強く反対もしない。台湾で生まれた祖母は、今は日本の天下だから、表向きは調子を合わせておけばいいと言った。そのくせ私が日常会話なら国語で話せるようになり、イロハが書けるようになっても、できるのは挨拶ぐらいだった。
 私の国語の学校はもう一つあった。父が属している俳句結社の句会だ。主宰は職場の上司で、高浜虚子に私淑した柴田忠良という四十歳を過ぎた人物だった。九月生まれの私を、秋日と命名したのは彼らしい。句会は内地からやって来た、総督府の役人、銀行家、農業学校の教師、本島人の何人かが参加して、国語のサロンになっていた。会場は州庁の近くにある柴田の家で、私の村から三十キロ離れている。父は私を連れて、家から歩いて小一時間の、公学校の正門の前からバスに乗った。座席に膝を突いて、窓に手を当て、高速で流れて行く風景を眺める。腰に革のバッグを下げて車内を歩き回る車掌や、小さなハンドル一つで易々と大きな車体を操る運転手が、とても格好良く見えて、彼等と同じ言葉を話せることが嬉しかった。
 句会は朝の十時から始まって夕暮れまで続く。天気の良い日は庭で、雨が降ると庭に面した広い座敷で行なわれた。十人ほどの兼題の句を進行役が読み上げ、みなで評価を述べ合って点を入れ、やがて作者が明かされて、怖々と自作の解説をする。時折主宰から句を整えるための添削がある。俳句に用いられる国語は、父に教えられた言葉と違っていたし、季語だの切れ字だのも分からなかった。最初の頃は退屈で仕方なかったが、指を折りながら五七五の定型に言葉を当て填める作業は、慣れるとパズルのようなもので面白くなってきた。
 昼になると、和服の、ふっくらした女性が食事を運んで来る。主宰の奥さんの手料理は、味が濃いだけの祖母の料理と違って、とても美味しかった。私はここで、ちらし鮨、カレー、親子丼を知った。中でも、ちらし鮨の雲丹の味は忘れられない。奥さんは、私があまり美味しいと言い募るものだから、瓶入りの雲丹の佃煮を土産にくれた。
 昼休みには、坂上という農業学校の教師が、
 ――秋日君は偉いなあ、と私を褒めた。内地の子供に教えてやりたいよ。
 内地人の同人は、国語を学ぶ本島人を心の底から称賛しているようで、みな優しくて親切だった。父は誰よりも真摯な態度で句作に臨んだ。主宰から貰った歳時記を開いて、公学校の恩師から就職祝いに贈られた万年筆で、白い半紙に文字をしるしている姿は、州庁の役人というより少壮の学者のように見えた。柴田はおっとりした口調で話す穏やかな人物だったが、内地人にしばしば辛辣な批評をする一方、父には好意的な評価を下すので、私は誇らしかった。三時になると、大人には酒肴がふるまわれ、子供には御萩や汁粉が出た。話題は俳句から台湾の行政に関わることや内地の消息に移っていく。大人の話に入ることのできない私は、甘い物を食べてしまうと、句会のもう一人の子供の参加者、柴田の息子と遊んだ。
 良悟という名の、私より三歳年上のこの少年は、内地人の子弟が通う小学校の四年生で、折り目のついた紺色のズボンと真っ白なYシャツを着ていた。話しかけられると、返事の代わりに羞んだ笑みを浮かべる。上に中学生の兄と姉がいたが、二人は姿を見せなかった。良悟と私は互いに、「秋ちゃん」「良ちゃん」と呼び合って、将棋や煙草の空箱で作ったメンコをした。本島人の遊び仲間と違って、彼の部屋には地球儀や銀色の鎖のついた懐中時計や鉱石標本や珍しい物が沢山あった。私は裸足で外を走り回っていたのに、良悟は靴を履いていた。父がよく帰りがけに柴田の奥さんから手渡される風呂敷包みには、良悟の着られなくなった衣服が入っていた。
 父から学んだ国語と、句会で耳に入ってくる内地人の国語は微妙に違った。発音や抑揚が人によって異なるので戸惑ったが、台湾語に福建系の 南語と広東系の客家語があるように、国語にもいくつかの方言がある、同人には九州人と東北人がいるので、手本は東京出身の柴田家の人々の言葉だと教えられて納得した。ある時私は「ぼっけえ」という言葉を使ってみなに笑われた。それは岡山出身の坂上の口癖で、「とても」とか「大変」という強調のための方言だった。私がその言葉を使ったのがきっかけで、国語と台湾語の関係をどう考えるかという話題が持ち上がった。
 坂上は方言を擁護して、自分は岡山を生まれた土地として愛している、日本は祖国として愛している、方言も国語も、どちらも大切にするべきだと主張した。こういうことは、土地の人間の意見を訊いた方がいい、と誰かが言った。その日句会に集っていた本島人は父と私の他に二人いた。彼等は、我々がまだ台湾語を使っているのは過渡的な現象で、本島に国語が広まっていけば、やがて台湾語は消えていくだろうし、それでも構わない、と言った。
 -台湾語は方言ではないと思います、と父は言った。台湾語は、大陸から渡って来た我々の祖先が、台湾本島で使い始めた言葉です。元々は中国語です。外国語です。我々は日本人ですから、国語を使うべきです。
 私も意見を求められて、祖母は国語が未熟なので話していても面白くない、台湾語は格好悪い、という意味のことを言った。他の大人達は笑っていたが、坂上は、
 ――秋日君、自分のお祖母さんをそういうふうに言っちゃいかん、と注意した。ぼっけえいかん。
 劉君の教育は行き届いている、皇国の未来は明るいと誰かが言って、父は曖昧に笑った。私の意見は父の教育の成果ではなかった。私は牛が口から泡を吹きながら引っ張る牛車よりも、白い手袋をした運転手がハンドルを操るバスの方が好きだった。私にとって、国語はバスの側にあったし、台湾語は牛車の側にあった。ただそれだけのことだ。

 秋の暮れぶるぶる赤い夕日かな 秋日

 これは私が七歳の時に、初めて参加した句会からの帰路のバスで、父に教わりながら五七五と指を折って詠んだ句だ。実景ではなく、記憶の中の風景だったが、次の句会で柴田は、写生の眼が利いている、と褒めてくれた。









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