ウェブ小説 アジア

陽炎の島(2)
 台北北駅から中正国際空港までは、バスで一時間の道程だった。タクシーに乗り変えて、椰子が湿気を含んだ風にそよぐ広い道路を走ると、硝子張りのスタンドが並んでいる。床が高く、カウンターと数脚の椅子があって、傍らには透明な冷蔵庫と、檳榔や煙草を入れたケースがある。中にはミニスカートやショートパンツの売り子がいて、椅子で長い脚を組み、通りを走る車の男達に鑑賞させていた。私はタクシーを降りると、そうしたスタンドの並びの一つに入った。
「いらっしゃい」
 秀麗が坐ったままで私を迎える。滑らかな、癖のない、美しい日本語は、最初会った時には日本人かと思ったほどだった。
「コーラ」
 彼女は怠そうに椅子から滑り下りて、冷蔵庫から出したコーラをグラスへ注ぐ。青いジョーゼットのドレスの、大きく開いた胸元には真っ白な肌が覗いて、フリルのついた短い裾から青いストッキングに包まれた華奢な脚が伸びている。
「君も何か飲まない」
「煙草もいい」秀麗は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出しながら訊いた。
「いいよ」
 一つ向こうの椅子に座り直した彼女は、ケースから煙草を一箱抜き取ると、一本咥えて燐寸で火を点けた。紫色の煙に眼を細めて、私が手渡した岩波文庫をぱらぱらと開く。日本語の書籍を専門に扱っている書店で、数日前に買って来たばかりの梶井基次郎だ。
「ここね」
 秀麗は端を折って耳の作ってあるページを開いて眼を上げた。微熱があるように潤んだアーモンド形の眼は、やや色素の薄い鳶色の瞳の周りを、濁りのない白眼が囲っている。
「そうだね」
 彼女は煙草を指で挟んで、濃い桃色の舌でちろっと唇を舐めた。私は秀麗の煙草を一本抜き取って火を点けると、椅子ごと体の向きを変えて、殺風景な眺めと向かい合った。静かに眼を閉じて秀麗の声を味わう。彼女を特別にしているのは、顔でも、胸でも、脚でもなかった。声だ。その響きには、何が録音されているのか分からない古いテープを再生したら、今はもうこの世にいない家族の懐かしい声が聞こえてきた――そういう得難い魅力があった。
 秀麗と出会ったのは今年三月だった。旅行代理店から、日本人の実業家が商用で台北を中心に一週間ほど滞在するのだが、交渉に慣れた人物を希望しているので、私を推薦したと言われた。空港に現われた依頼主は島野という若者で、檳榔のスタンドを売り子の台湾娘ごと日本へ輸入しようとしていた。檳榔は南方系の椰子科の植物で、実を石灰に包んで噛んでいると覚醒作用がある。口の中に溜まった赤い唾液を道に吐くから、市民からは不衛生だと嫌われ、労働者やヤクザが常用している。島野は、まず東京の若者の間に市場を作りたい、檳榔を輸入するルートは確保した、後はスタンドと売り子を仕入れて、渋谷と原宿で試験的に営業するというのだ。女衒の手伝いは御免だった。仕事を下りたいと申し出ると、旅行代理店に賠償金を請求する、というので担当者に連絡を取った。彼は島野を個人的に知っていて、怪しい人物ではない、と保証したから仕方なく引き受けた。
 私はスタンドを回っている間、島野が売り子の娘へ名刺を渡すたびに、
 ――電話をする時にはよく考えた方がいいよ、と注意を促した。そうした売り子の中の一人が秀麗だった。安易な気持ちで誘いに乗ってはいけないと言うと、それまで北京語で話していたのに、
「それは自分で決めるから」と流暢な日本語が返った。驚いている島野に名刺を返しながら、「乗れない。自分より頭の良い通訳は使わない方がいいわ」と言った。二度目にスタンドを訪ねた時、彼女は私のことを憶えていた。
「あの話、断ったけど」
 私が客として来たことを告げると、黙って注文された商品を取り出して、ヘッドホンステレオを聴きながら、綺麗に彩色した爪の手入れを始めた。何度か通って話をしようとしても、短い返事をするだけで会話にならなかった。私は不満だった。声が聴きたかったのだ。それである日、文庫本を取り出して、これを朗読してくれないかと頼んでみた。
「どうして」と彼女は微熱のあるような潤んだ眼を向けた。
「僕の日本語は、やっぱり日本人の日本語と違う。微妙にね。君はそうじゃない。だから君の日本語を聴いてると、僕の言葉を矯正できる」
 秀麗は言葉の裏側にあるものを探るような表情になった。
「だったら日本語の学校へ行けば」
「学校は、……学校は退屈だよ。詰まらない。…でも、いいよ、嫌なら無理には」
 彼女は本を手に取って、そこから私の気持ちを読み取ろうとするように、ぱらぱらとページを捲っていった。
「どこを読めばいいの」
 秀麗は国木田独歩の『武蔵野』を滑らかに朗読して、「これでいいの?」と言った。謝礼を差し出すと首を振って拒んだが、私が頻繁にスタンドへやって来て朗読を依頼し、そのたびに謝礼を支払おうとしたら、ある時に子供のころ将来はアナウンサーか声優になりたいと思っていたと告げて受け取った。それは私が初めて知ったプライベートな情報だった。さらに台北の日本人学校に通っていたことを知って幸福な偶然を喜んだが、彼女は私が母校の職員であることが分かっても、それほど驚きもしなかった。確かに台北の日本人学校は一つしかないし、台湾の日本語人口は北京語に比べればずっと少ないのだから、私と彼女の接点としては珍しくもなかった。
「終わり」
 煙草を吸ったりオレンジジュースを飲んだりしながら朗読を続けていた秀麗は、本を閉じて宙に指で円を描く。句点を打ったのだ。
「ありがとう」
 私は溜め息をついて煙草に火を点けた。硝子の向こうの、トラックやタクシーが行き過ぎる風景を眺めながら、言わなければならないことを確認する。
「コーヒーくれないか、温かいの」
 よくエアコンが効いているので少し体が冷えていた。湯気の立つ褐色の液体を満たしたカップがカウンターの上に置かれた。私はさり気なくショルダーバッグからカセットテープを取り出した。
「仕事頼みたいんだ。本格的に朗読してくれないかな、ギャランティー払うから」
 秀麗は私が差し出した岩波文庫の樋口一葉の『にごりえ』を手に取って眺める。
「劉さん、もしかして声フェチ」
 私はコーヒーを飲みながら笑った。
「もちろん君の声は好きだよ。でも、それだけじゃない。できればCDにしたいんだ」
「劉さんの仕事、通訳でしょ」
「仕事で知り合った日本の音楽プロデューサーが、朗読できる人を探してる。童話のシリーズを作りたいらしい。
 声優とか、アナウンサーになりたいって言ってたでしょ。売り込んでみたらどうかな。君ぐらい日本語ができれば国の違うことは問題にならない。台湾人だっていうのは、返ってチャーミングな要素だ。
 どう、やってみない。君を応援したいんだ」
 一瞬秀麗の眼に強い光が宿って、その顔に何か不快なものが現われ、文庫本をカウンターに投げ出した。
「やらない」
 彼女はヘッドホンで耳に栓をすると、外へ顔を向けて、このスタンドにたった独りでいる表情になる。こんなことは初めてだった。戸惑いながら、私は全身で私を拒んでいる秀麗を見詰めた。
「秀麗」
 呼びかけても言葉が届いていないらしく、こちらを見ようともしない。何度声をかけても同じだった。
「今日は帰る」
 謝礼をカウンターの上へ置いてスタンドを出た。鈍い銀色の雲に覆われた空の下で、強い風が沿道の椰子の葉を大きく揺らせた。激しく気候の変化する十二月の、違う国へ来たような寒さに、コートの襟を立てて首を竦める。若い娘の気持ちは謎だった。彼女達のことを分かるには、あと三百年ぐらいは生きることが必要なのだろう。









このページの先頭へ
三国志に学ぶ勝利学

三国志に学ぶ勝利学

(潮出版社)

ハンスの林檎

ハンスの林檎

(潮出版社)

見果てぬ祖国

見果てぬ祖国

(潮出版社)

トキオ・ウイルス

トキオ・ウイルス

(ハルキ文庫)

東京難民殺人ネット

東京難民殺人ネット

(角川春樹事務所)