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陽炎の島(1)
 私は歳時記のゲラ刷りを手に取って、銀の柄がついたドイツ製の天眼鏡越しに確かめる。老眼鏡だけでは細かな字を読み取ることが難しいのだ。何度も推敲を行なっているから、何が書かれているかは憶えている。大きな変更はない。部屋の模様替えで家具の位置を試すように言葉を動かす。するといつか眼の働きが、厚い凸レンズの向こうに大きく映し出される、漢字の旁と偏、平仮名、片仮名の、直線や曲線を愛撫するようになぞっていることがある。

 天地を食らひて太しひる一つ 劉秋日

 台湾では大蒜という蒜を、私はひると呼ぶ。ひるの、ひ。この文字を見るたびに、初めて見た海の大きく湾曲した海岸線を思い出す。潮の香を含んだ微風や足裏で踏みしめた砂の感触。波の響き。広い紺色の海。ひ、はあるいは女の豊かな乳房の線だ。頬にかかる母の息。乳の匂い。安らかな眠りを約束する柔らかな闇。ひ、の曲線で囲まれた内側の空間は一つの小宇宙で、そこに眼に見えないさまざまな物を呑み込んでいる。忘れられた時間。誰かの運命。さらには文字の魂。それが何なのかは秘密の、ひ――
 やがて私の眼はまた文字に誘われた幻の風景から、凸レンズの下の活字の並びに戻っている。平仮名を使った箇所の締まりがないように思えて漢字にしたり、語尾を過去形から現在形に直したり、赤ペンを走らせる。最初の一語を書いてから二十年に近い歳月が過ぎていた。赤ん坊が親から独立して故郷を出るようになるまでの時間を共に過ごして来たわけだから、もう少しで手を離れるのかと思うと、やはり寂しい。これは私の悪い癖で、いつも迷惑をかけている結社の同人からは、先生、もっと思い切りを良くしないと、安らかに死ぬこともできないよ、と忠告されている。
 机の上に置いてある紺色のスウォッチが、電子音を響かせて七時半を報らせた。私は背伸びを一つして部屋を出て行く。誰もいない職員室の鍵を開けて、隅のロッカーの上にあるコーヒーメーカーに豆と水を入れてスィッチを押し、傍らの椅子に腰かけて煙草を吸った。小さなモーターの唸りと湯の沸騰する音が聞こえて、香ばしい匂いが立ち込める。まず一杯目を自分のために入れて、もう一本煙草を点けた。
「劉さん、お早ようございます」
 扉が開いて、福山校長が重々しく頷きながら机に鞄を置いた。私は彼の分のコーヒーを注いでカップを手渡す。
「異常ありません」
「御苦労様でした」
 福山はわざと恭しく頭を下げて労った。この日本人学校で暮らし始めたのは、私の主宰する俳句結社の菱木という同人が、PTAの会長を務めていたことがきっかけだった。長く住んでいたアパートが解体されることになり、七十を過ぎた老人の独り暮しのせいで、なかなか新しい住居が決まらなかった。家やアパートを買う意志のない私は、ホテルを転々としていた。それを知った菱木が、夜は無人の警備システムを導入している学校に、やはり人間もいた方が安心だと持ちかけた。校長は総合商社の支社長という日本人社会の有力者の依頼を断れずに、私を夜警に採用して、寝る前に懐中電灯を持って校舎を一巡りするだけで、物置き同然になっていた宿直室に住む権利を与えた。日本式に言うなら四畳半ほどの部屋は、私と一匹の台湾闘魚と気紛れな猫には充分な広さで、家賃も光熱費も要らない。仮住まいのはずのこの暮らしも三年目に入った。一度落ち着くと引っ越すのが面倒だった。菱木が帰国しない限りはここにいることになるだろう。
 部屋に戻った私は、水槽の隅でじっとしている闘魚と、奥のソファーで円くなって上目遣いにこちらを見つめているブチの猫に餌を与える。台湾闘魚は、日本領の時代に台湾金魚と呼ばれた、体長が十センチほどの、東アジアから南アジアに分布している鑑賞魚だ。雄はテリトリーに他の雄が侵入すると、火が点いたように紅く変色して、どちらかが死ぬまで戦う。よく怒る。一つの水槽で二匹の雄は飼えないのだ。その性質が面白い。
 猫は校庭の芥箱の周りをうろうろしているので、食事の残りをやったら、部屋へ出入りするようになった。朝食を与えると外へ出すことにしていたが、こちらの事情を分かっているのか、明るいうちは学校へ寄りつかず、暗くなって私が宿直室へ戻るとどこからか忍び込んで来る。私は彼の飼い主だと思っていないし、向こうもそれは迷惑だろう。この部屋で、闘魚も、猫も、私も、それぞれが自分の領分を侵されることなく同居しているのだ。餌を食べ終わった頃に窓を開けてやると、猫は口の周りを舐め回し、さっと窓枠に飛び乗って、辺りの様子を窺いながら外へ出て行く。塀を乗り越えればレストランやブティックの並ぶ街路だ。
 同居人の世話が済んだ後は、手帳を開いて今日の予定を確認する。細かな仕事を平行してやっているので、きちんと管理をしないと月末に慌てる。業務内容は、主に日本語、英語、北京語の文書の翻訳で、他にも日本から台湾を訪れる観光客のガイドや日本語教室の講師をしている。私のオフィスの実質は、携帯電話が一つ、モバイルコンピュータが一台だから、どこへでも移動ができた。歳を取ると電子機器が扱えないというのは俗信だ。子供のころ家の近くに水車小屋があって、中に碾き臼が据えてあり、水車の回る力で小麦粉を挽く仕組みになっていたが、村の年寄りはこの技術を上手く活用していた。携帯電話やコンピュータは水車小屋と変わらない。私は戸締まりを終えると、モバイルコンピュータを入れたショルダーバッグを下げ、自転車を近くのマクドナルドへ走らせた。
 午前中は通りに面したカウンターに坐って、翻訳するための文書とコンピュータを開いている。ここは店員の愛想が良い。味に拘わらなければ環境が整っていた。よく磨かれた硝子の向こうで、車が走り、人が往来し、犬がのんびり歩いている。この街には日本人学校だけでなく、アメリカンスクールもあるから、通行人の中には白人や黒人もいる。ここにいると疲れた時に眼を上げるだけで心が呼吸する。風が入る。イギリスの文人は、いつも陽の光が射すように設計された硝子張りの書斎を持っていたらしいが、私の場合は街全体が庭だ。最近はスターバックスもできたから、オフィスには困らない。時にはそういう店を梯子する。街の風景を眺めながら仕事を進められることが、何よりも気に入っている。









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